地下鉄サリン25年 オウムと麻原の「死」で日本は救われたか(森達也)

2020年3月20日(金)11時00分
森 達也(作家、映画監督)

1995年3月20日、地下鉄サリン事件が発生。被害は死者13人、負傷者5800人以上に及んだ KAKU KURITA/AFLO

でも考えてほしい。多くの人は麻原のこうした異常な言動を死刑逃れのための演技だと言い続けたが、結果として麻原法廷は一審だけで終わっている。つまり死刑判決を早めている。ならば一審が終了して(被告人とコミュニケーションできないことを理由に)弁護団の控訴趣意書提出が遅れて裁判打ち切りが濃厚になったとき、そろそろ気が違っているふりはやめにすると宣言するはずだ。

社会が共有した被害者意識

死刑を言い渡したこの一審判決を傍聴して衝撃を受けてから、僕は多くの人に取材した。拘置所に通ってオウム死刑囚たちと面会し、麻原の故郷である熊本の八代を訪ね、多くの知己や関係者に会った。今は確信している。異常な言動が始まった一審途中から、麻原の精神状態は壊れ始めていた。でも裁判は続けられた。そもそも一審の審理が終了するまで、麻原は一度も精神鑑定を受けていない。通常の裁判ならあり得ない。

結果として、戦後最大級の犯罪を起こしたオウム真理教の頂点にいた麻原の裁判は、一審だけで死刑判決が確定した。その後も処刑に至るまで、麻原は意味のある言葉を最後まで発していない(だからこそ遺体の引き渡し先として四女を指名したとの情報が宙に浮く)。

その帰結として、地下鉄サリン事件の動機が分からない。裁判では「間近に迫った強制捜査をかわすために地下鉄にサリンをまけと麻原が指示した」とされている。その根拠は井上嘉浩が法廷で証言したリムジン謀議だ。しかしリムジンに同乗していた他の側近たちは井上の証言に対して懐疑的であり、何よりも井上自身が後にこの証言を否定している。ところが裁判所はこの証言を前提にし続けた。

もちろん一審判決文にあるように、「救済の名の下に日本国を支配して自らその王となることを空想し」て、サリン散布を決意した可能性はある。それを否定する根拠を僕は持っていない。でも得心できるだけの確信もない。確かに多くの証言は積み重ねられたが、そのときに麻原が何を思っていたのか分からない。一審途中で不規則発言を繰り返してから、麻原はすっぽりと沈黙した。だから最終的な動機の稜線が曖昧だ。

事件を解明する上で動機は根幹だ。多くの人は地下鉄サリン事件をテロと言い添えるが、テロは政治的目的が条件だ。暴力的行為だけではテロではない。動機が分からないのならテロとは断言できない。

地下鉄サリン事件は不特定多数の人が標的にされた。加害側と被害側に因果関係はない。95年3月20日の朝にもしも東京の営団地下鉄に乗っていたら、誰もが被害者となる可能性があった。それは自分の夫だったかもしれないし妻だったかもしれない。子供や親だった可能性もある。

こうして被害者感情が共有される。疑似的な当事者意識と言ってもいい。実際の被害者や遺族なら、加害の側を強く憎むことは当たり前だ。その感覚が戦後最大級の報道によって社会全体に共有され、善悪の二極化が進行し、セキュリティー意識が燃料となって日本社会の集団化が加速した。

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