地下鉄サリン25年 オウムと麻原の「死」で日本は救われたか(森達也)
<1995年3月20日、オウム真理教が地下鉄サリン事件を起こした――。2018年の麻原彰晃の死刑を経て加速する日本社会の「集団化」。その意味を、ドキュメンタリー映画『A』『A2』でオウム信者たちを追った作家・映画監督の森達也が問う(前編)>
「処刑後の父とは2回会いました。最初は本当に短い時間。拘置所が用意した小さい棺桶にぎちぎちに入れられて、頭には白い布が巻かれていて、ひつぎの窓から顔だけ見えている。周りに刑務官の方がたくさんいて、ひつぎには絶対に触れるなと言われました。遺体を返してくださいと何度もお願いしたのだけど......」
そう言ってから松本麗華は数秒だけ沈黙した。その後の経緯は報道されたので僕も知っている。
2018年7月6日、麻原彰晃こと松本智津夫の死刑が、他の6人のオウム死刑囚と共に執行された。7日、拘置所は遺体に会いに来た家族に対して引き渡しを拒否。その翌日以降、執行直前に遺体の引き渡し先について刑務官に質問された麻原が「四女」と答えたという報道が、一部メディアで始まった(ただしこれは法務省の公式発表ではない)。
しかし、遺体の引き渡しを拒む拘置所に対して麻原の妻と次女、三女である麗華と長男、次男は「(麻原の)精神状態からすれば特定の人を引き取り人として指定することはあり得ない」と反論。11日には、四女の代理人である滝本太郎弁護士が、記者会見で散骨の意向を表明した。
ここまでは報道されている。そして以下は報道されていないこと。この年の3月、執行後の遺体について法務省は、死刑囚本人が指定した人に引きとらせるとする通達を発している。処刑はその4カ月後だ。なぜこのタイミングでこの通達なのか。そう思うのは僕だけだろうか。
事態は今も膠着したままだ。家族は引き渡しを求めているが、遺骨は拘置所に保管されている。こんな前例はかつてない。処刑前の不自然な通達や遺体の引き渡し先を四女としたとの情報の出どころも含め、極めて政治的な動きが裏であった可能性はあると思う。補足するが、麗華と家族たちが最初に遺体と対面したとき、拘置所は麻原の遺言については何も言っていない。メディアが報道した後に、急に話を合わせてきたという。
「担当の刑務官の方に、本当に父はそんなことを言ったんですか、と聞いてもちゃんと返事をしてくれない。目をそらす、という感じでした。何かを無理しているなと感じました」
そう言ってから麗華は、「2回目の対面は翌日で、このときはひつぎのふたを開けてもらって顔に触れることができました」とつぶやいた。「それが最後。その数日後に森さんに電話しました」
僕はうなずいた。電話で麗華が「江戸時代の農民みたいな顔でした」と言ったことを覚えている。意味がよく分からなかったが、それよりも気になったのは、このときの彼女の声が妙に明るかったことだ。その直前には涙声だった。急激な変化に、何となく危うい精神状態を感じた。
「そうだったかもしれない」と麗華は言う。「あの頃のことはあまりよく覚えていないんです。父が処刑されてしばらくはずっとふわふわしていて、今もちゃんと思い出せない」
「江戸時代の農民の意味は?」
「髪を短く刈られて痩せ細っていたので、そんなふうに思ったのかな」
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