あいちトリエンナーレのささやかな「勝利」

2019年10月8日(火)12時00分
仲俣暁生(フリー編集者、文筆家)

展示を継続した作品の肯定的な力

名古屋市内に戻ると、まず名古屋市美術館に向かった。ここでは今回のトリエンナーレの目玉作品の一つであり、〈表現の不自由展・その後〉の展示中止に抗議して展示形態を一変させたモニカ・メイヤーの〈the clothesline〉の残骸を見なければならないと思いつめていた。

すでにインターネット経由で知ってはいたが、実際に会場を目にすると、その無残な状態はあまりにも痛ましいものだった。大勢の来場者が記入し展示に加えていった小さな紙片はすべて撤去され、未記入の用紙が引き裂かれ、フロアに撒き散らされていた。どんな言葉による批判よりも強い調子の「検閲」への抗議を、モニカ・メイヤーの作品の残骸からは感じざるを得なかった。

だが同時に、この悲痛な叫び声の傍らで展示が続行されている諸作品がもつ力に、励まされる思いがしたことも記しておかなければならない。今回の事件を受けて、すべてのアーティストが足並みを揃えて作品の撤去あるいは展示変更を行ったわけではない。抗議の声明には名を連ねながら、展示を続行した作家もいる。そしてそうした作品は、そのことによってなにかを見るものに訴え続けているのだ。

名古屋市美術館に展示された作品でもっとも強い印象を残したのは、青木美紅の大がかりなインスタレーション作品〈1996〉だった。この数字は作家自身が配偶者間人工授精によって生を受けた年であり、世界で初めてクローン技術により「ドリー」と名付けられた羊が生まれた年でもある。展示スペースにはドリー生誕の地であるスコットランドや羊をモチーフに、ラメ糸で刺繍した大がかりな絵画作品や、小部屋を模した立体作品、そこにしつられられた絵本のゾートロープなどが、過剰と思えるほど詰め込まれていた。それらは生殖や生命をめぐる複雑な作者自身の感情や思想を表現すると同時に、死せる作品、つまり展示中止や形態をネガティヴに変更した作品より、いわば「生き続けている」作品のほうが、どうしても肯定的な力をもってしまうという端的な事実をも教えてくれた。

もちろん、それは展示を継続した作家たちがモニカ・メイヤーらの姿勢を批判しているという意味ではない。あくまでも作品を見る者のうちで生じた個人的な出来事なのだが、これは私にとってまったく予想外のことだった。

展示形態変更後のモニカ・メイヤー〈the clothesline〉

青木美紅〈1996〉

ロンディノーネ作品の展示継続がトリエンナーレを救った

名古屋市美術館から愛知芸術文化センターに移動すると、ようやく本丸にたどり着いたという気分と同時に、展示中止作品がもっとも多いこの場所から受ける、ネガティブなインパクトに対して身構えている自分がいた。とにかく、ここではあまりにも多くの作品が「死んで」いるのだ。8階の愛知県芸術ギャラリーではパク・チョンキャンの〈チャイルド・ソルジャー〉、イム・ミヌクの〈ニュースの終焉〉、タニア・ブルゲラの〈43126〉がすべて展示中止となっており、10階の愛知県美術館ではレジーナ・ホセ・ガリンドの〈LA FIESTA #latinosinjapan〉、クラウディア・マルティネス・ガライの〈・・・でも、あなたは私のものと一緒にいられる・・・〉が展示形態の変更により原型を留めない状態、さらに先に述べたとおり田中功起は〈抽象・家族〉の展示のフレームを「再設定」しており、この日からは入場できない状態になっていた。

愛知芸術文化センターの鬱屈した雰囲気を救ったのは、一度は展示を撤去する姿勢を示していたウーゴ・ロンディノーネの〈孤独のボキャブラリー〉がそのまま残ったことだ。広いワンフロアに45体のピエロが思い思いのポーズで座ったり身を横たえたりしているこの作品こそが、今回のあいちトリエンナーレにおける最大のイコンだったと私は考える。決して幸福な状態にいるとは思えないピエロたちの傍らで、観客が自らも同じポーズをとったり、寝そべってみたりする行為は、ある意味であの少女像の隣の椅子に腰掛けてみる行為に等しい。誰にでも親しみやすく、作品としての奥行もあるこの展示までが欠けていたら、今回のトリエンナーレは持ちこたえられなかっただろう。展示継続の説得を行ったキュレーターの努力を惜しみなく讃えたい。

ウーゴ・ロンディノーネ〈孤独のボキャブラリー〉(部分)

この会場でもっとも印象に残った作品はワリード・べシュティの〈FedEx〉と〈トラベル・ピクチャーズ〉だった。前者は中に何も入っていないガラスの立方体がさまざまに破損した状態で、同じサイズのFedExの箱に載せられている。これは実際にFedExのサービスを使ってガラス箱を発送し、受け取った状態をそのまま展示したもので、グローバリゼーションがもたらす光と影についての分かりやすい隠喩になっている。後者は旧東ベルリンにあったイラク大使館の廃墟の写真だが、べシュティは世界中を移動する際にあえて感光防護対策をせず、空港の手荷物検査によるX線に晒すことで不思議な効果を加えている。

この一連の写真を「美しい」と思うことが正しい受け止め方なのかはわからないが、私はとても美しいと感じた。この作品の美しさのなかにあらゆる複雑な感情が、そしてそれを手懐けるアートの力がある。芸術監督が今回のトリエンナーレのテーマとして設定した「情の時代 Taming Y/Our Passion」のコンセプトは、この作品において十分に機能していたと思う。

ところで、愛知芸術文化センターでは〈表現の不自由展・その後〉が本来展示されていた場所を見落としたまま、会場を出てしまった。すでに展示スペースに至る通路は扉で封鎖されており、注意していないと気づかない状態だった。私が訪れた後になってモニカ・メイヤーのスタイルを取り入れた、みずからが自由を奪われた体験を観客が紙に書き壁に貼っていくプロジェクトが始まり、そのスペースが足りないという理由でこの扉が開かれたという報道を見た。

ワリード・べシュティ〈FedEx〉(手前)、〈トラベル・ピクチャーズ〉(壁面)

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