出版業界を席巻するケント・ギルバート現象の謎

2018年10月25日(木)17時20分
安田峰俊(ルポライター)

ギルバートは過去の「外タレ」時代から、日本社会の矛盾点を歯に衣着せず指摘するタイプではあった。だが、現在のような言論を開始したのは2013〜14年頃からだ。

ギルバート現象はいかなる事情で生まれたのか。彼の第2の人生が始まった背景には、日本の保守系論壇における2人の大物の存在があった。

言論人への「転向」の立役者

「2013年10月に私が編集・刊行した『不死鳥の国・ニッポン』(日新報道)は、ケントの『転向』の大きなエポックメイキングだった。一時期低迷していた彼に、第2の出発点を準備できたと自負している。私は彼に『これからのあなたは芸能人ではなく文化人だ』と伝え、背中を押した」

そう話すのは、同書を手掛けたフリー編集者で実業家の植田剛彦(73)である。

三島由紀夫をはじめ、長嶋茂雄などスポーツ界・政財界に幅広い人脈を持つ彼は、ギルバートの「転向」以前にも複数の著書の編集を手掛けてきた。1989〜95年にはケント・ギルバート外語学院(既に閉鎖)の理事長を務め、長年のビジネスパートナーでもあった。

だが、植田には別の顔がある。出版社・自由社の代表として、保守系市民団体「新しい歴史教科書をつくる会」(以下「つくる会」)が編纂した中学生向け教科書や、杉田水脈、藤岡信勝、倉山満といった保守系言論人の著書を多数刊行しているのだ。彼はこうも言う。「『不死鳥』刊行時のケントには理解不足な面があり、政治的発言を行う覚悟が不十分だった。だが、私が特攻隊についての英文資料を渡したり、勤勉なケント自身が勉強して理解を深めたことで、彼は完成していった」

翌2014年8月、朝日新聞が慰安婦問題に関する過去の誤報を認めた際、ギルバートは自身のオフィシャルブログでこれを批判する。記事はネットユーザーの間で評判になり、同年秋から産経新聞系の夕刊フジが寄稿を打診するようになった。

やがて「理解」を深めたギルバートは、2015年から「正論」「WiLL」など右派系論壇誌の常連寄稿者となり、複数の保守派系市民団体に名を連ねるなど、急速に右旋回を強めていく。

同年末には、過去の歴代受賞者に元自衛隊航空幕僚長の田母神俊雄や元海上保安庁職員の一色正春らタカ派的な著名人が並ぶアパ日本再興財団の懸賞論文で、最優秀藤誠志賞を受賞。保守系言論人としての地位を確立した。

「ケントは正しいことを正しいと言う、真っすぐな人間だ。最近、『WGIPを指摘したらアメリカに帰れなくなるのでは?」と尋ねたが、ケントは『気にしない』と言っていた」(植田)

本誌21ページより、2015年以降は次のページ

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