中絶医療施設への銃撃テロ、保守派が抱える闇

2015年12月1日(火)17時50分
冷泉彰彦

 つまり、「国際的なもの」や「大企業の経済力」などが「中絶賛成のイデオロギー」と結びついた敵の正体だというのです。そこには、グローバル経済から取り残された者の鬱屈した「反国際主義」があり、「大企業への憎悪」があります。さらに思想的に飛躍する中で、「国際的な大企業に支えられたリベラル思想」が「人間であるにも関わらずヒトの生命に対して決定権を持つ」という傲慢に至っているというストーリーを描いて憎悪の対象にしていたわけです。

 理屈としては分からないわけでもないのですが、それではどうして「中絶への怒り」という感情が、諸外国では見られない政治的イデオロギーに発展するのでしょう? そこにあるのは、「強者による殺人の正当化という偽善」への怒りです。それは宗教の教義にそう書いているから、というレベルを越えて一種の信念になってしまっており、理屈を越えた感覚としてあるようです。

 これに加えて、アメリカの保守が抱きがちな「大自然の脅威に対抗するカウボーイ的なヒロイズム」や、銃社会ゆえの「殺されるかもしれない」という恐怖心が「殺される存在としての胎児」への感情移入と、「殺す側」であるリベラル派への強烈な反発になる、そしてそれが「中絶反対」という一点に凝縮するというイデオロギーのメカニズムが見られます。

 この一点に凝縮するというのが特徴であって、例えば中絶反対派は女性の社会参加や給与水準の均等などの点で「アンチ・フェミニズム」であるかというとそうではありません。そうではなくて、彼らが重視しているのは「生命倫理」に集約されているのです。

 その関連で、中絶問題に加えて「尊厳死」に対しても強く反対しており、クリント・イーストウッド監督がオスカーを受賞した『ミリオンダラー・ベイビー』という映画では、尊厳死の問題が肯定的に描かれているとして上映反対運動が起きましたが、そこにも同様のイデオロギー的背景があります。

 自分は「殺される側」だという自己規定をして、中絶や尊厳死を肯定する人間を「殺す側」だと決めつけて敵視する、そこまでなら「生命を尊重している」という姿勢を曲がりなりにも主張できるかもしれません。ですが、そこで「敵視した相手」の命を奪ってもいいということになると、論理矛盾も甚だしいということになります。ですが、その矛盾に気が付かないところが、テロリストがテロリストたる所以なのでしょう。

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