パレスチナ人を見殺しにするアラブ諸国 歴史が示す次の展開は...

2018年5月23日(水)17時38分
川上泰徳

<米大使館のエルサレム移転で勃発したパレスチナ危機。サウジアラビアもエジプトも身内の苦難に声を上げようとしないが、これは過去40年、何度も繰り返されてきたパターンだ。次の危機が迫っている>

米国のエルサレム移転に抗議するガザでのデモにイスラエル軍が銃撃し、60人を超える死者が出た。デモは5月16日には鎮静化し、いまのところ新たなインティファーダ(民衆蜂起)につながる様相は見えない。しかし、パレスチナの混乱が収まればそれで問題が終わるわけではない。今後の懸念は、エルサレム問題が次の中東危機の前触れとなることである。

この問題で国際社会の懸念は、2000年9月に始まった第2次インティファーダに続く第3次インティファーダの引き金になるのではないかということだった。

第2次インティファーダは08年までにパレスチナ側に5000人近い死者が出て、イスラエル軍や国民も1000人以上が死んだ。今回も、ガザを支配するイスラム組織ハマスや、レバノンのシーア派組織ヒズボラは、昨年12月にトランプ大統領がエルサレムをイスラエルの首都と認定し、米大使館をエルサレムに移転することを公表した時、第3次インティファーダを呼びかけていた。

第2次インティファーダのきっかけは、イスラエルの右派強硬派リクードの党首だったアリエル・シャロン氏(のち首相)がエルサレムのイスラム教の聖地に立ち入ったことだった。エルサレムでパレスチナ人のデモが続き、イスラエル警察が実弾を使ってパレスチナ人の死者が出たことで、ヨルダン川西岸とガザに抗議デモが広がった。

私は第2次インティファーダ当時、新聞社のエルサレム特派員だった。パレスチナ人の抗議はその後、自治政府を主導した政治組織ファタハの武装部門とイスラム組織ハマスによる武装闘争が中心となり、イスラエル軍による西岸への大規模侵攻・武力制圧によって抑え込まれる。パレスチナ解放闘争を率いたアラファト議長も、04年に体調を崩してフランスで死んだ。こうして、第2次インティファーダの舞台となった西岸では、パレスチナ人の間に失意や挫折感が広がっていった。

その後、パレスチナは穏健派のアッバス議長が率いるファタハ主導の自治政府と、強硬派のハマスが支配するガザに分裂した。

今回の米大使館のエルサレム移転に対しては大規模なデモがあったのはガザだけだが、ハマスは武装闘争を自制し、ハマス支持者を含む民衆による抗議デモを仕掛けている。ハマスのデモが終息した17日、公式サイトには「我々には武装闘争の権利もあるが、平和的な手段を選んだ」と題して、ハマス幹部がカタールのアルジャジーラテレビに語った内容が掲載された。

パレスチナ人はアラビア語を話すアラブ人であり、西のモロッコからエジプト、サウジアラビアを経て、東のイラクまでアラブ世界では「イスラエルによる虐殺」としてニュースが流れている。

第1次インティファーダが湾岸危機に、第2次インティファーダが9.11に

米大使館のエルサレム移転が新たな中東危機につながる可能性について理解するには、これまで40年ほど中東では危機が繰り返されてきたことを振り返る必要がある。

1979年-80年のイラン革命、ソ連のアフガン侵攻開始、イラン・イラク戦争開戦、▽90年-91年の湾岸危機、湾岸戦争、▽2001年-03年の9.11米同時多発テロ、イラク戦争、▽11年の「アラブの春」――という具合にほぼ10年おきに危機が起きているのだ。

それぞれの中東危機の前に、パレスチナ危機が前触れのように始まっている。90年-91年の湾岸危機・湾岸戦争の前には、87年12月の第1次インティファーダ、▽01年の9.11米同時多発テロでは、前年の00年に第2次インティファーダ、▽11年の「アラブの春」の前には、08年末から09年1月にかけて行われたイスラエル軍によるガザ攻撃・侵攻――。

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