国境紛争を観光化するインド・パキスタン

2013年11月5日(火)11時38分
酒井啓子

 今、パキスタンに来ている。

 人間文化研究機構が実施するイスラーム地域研究事業の一環で、パキスタンのラホール経営大学で「イスラーム地域研究の新たな地平」と題する国際会議が開催されているのだ。ラホール経営大学との協力関係を作り上げ、日本の若手イスラーム地域研究者と、パキスタンの優秀な若手学者の熱気溢れる学術交流と信頼関係を築き上げた早稲田大学の桜井啓子先生の、三日間の国際会議を切り盛りする見事な手腕は、実に感動ものだったが、紛争や国際政治を専門にする者として、それ以上に感銘を受けたことがある。ラホールのパキスタン・インド国境への訪問だ。

 インドとパキスタンが、1947年の英領からの分離独立以来、さまざまな国境対立を抱えていることは、周知のことだろう。ラホールの国境のひとつのワーガーという村も、分離独立でふたつの国に分断された場所のひとつだ。そこでは、毎日国境を挟んで国旗降納の儀式が繰り返されているという。それを見に行った。

 国境では向こう側が見えるような格子の門が閉ざされ、その両側には両国の国旗が掲揚されている。その手前には、まるでサッカーかコンサート会場のようなスタジアムが設けられているのが、まず異様だ。さらに驚くのが、門の向こう側をみると、まるで鏡で映したかのように、インド側にもスタジアムがあることだ。手前側の観客席にはパキスタン人が1000人近くぎっしり座り、パキスタン国旗を振っているのに対して、インド側はインド国旗を振るインド人が集まっている。そして、双方ともに大音響で自国を讃える賛歌を流している。まるで試合が始まる前のサッカーの興奮に満ち満ちた応援席だ。

 門の手前には黒服のパキスタンの国境警備兵が立ち、向こう側にはカーキ色の制服のインドの警備兵が、これまた合わせ鏡のように立つ。なんと頭にかぶる扇用のものがついた帽子まで、同じような姿だ。その歩き方や佇まいは、両国とも英領だった経験を彷彿とさせる、ロンドンの衛兵交替儀式の歩き方にそっくりである。

 お互い、音楽と旗振りで国威が高揚しきったところに、国境警備隊が登場する。身長二メートルもあるかと思われる10人弱の警備兵が、一人ひとり、門に近づいては門の向こうの「外敵」を威嚇する。腕を振り上げたり、足を高く上げたり、攻撃的なパフォーマンスが続いたのちに、突然門が開くのだ。格子越しに見ていたインド側の様子が至近距離に詳らかになる。威嚇しあっていた互いの兵士が近寄り、まず握手してから、再びマッチョな体格を誇示して、走り寄り、ガッツポーズをとりと、相手に対抗する。

お互いに向き合ってパフォーマンスをする

 観客の大歓声のなかで、そうしたやりとりが30分も続くと、最後に国旗の降納が行われる。式のクライマックスだ。お互い自国の国旗を、降ろすための紐を交差させながら、じわじわと降ろしていき、それぞれの警備隊が旗をもって自陣に戻ると、門は再び閉ざされる。

交差して旗を降ろす
旗を収納する警備隊

 その後観客は、自国の警備兵に駆け寄って一緒に写真を撮ったり、インド側から国境近くまでやってきた人々と国境を挟んで写真を取り合ったりしている。国境という、二つの国民を分ける緊張の場が、見事なまでに、ナショナリズムと和解、共存をともに全面発揮させる観光儀式と姿を変えた、素晴らしい「紛争解決」の技である。

 パキスタンの専門家である大阪大学の山根先生に聞くと、いつからこの儀式が行われているかは不明だが、何回か繰り返された印パ戦争の時期を除けば、毎日、日暮の時間帯に続けられてきたとのこと。98年にインド、パキスタン間で核実験競争が深刻化し、核戦争の発生が危惧されたとき、翌99年に両国首相がラホールで会談して信頼醸成措置が取られたのだが、この儀式の観光化はこのときから行われたらしい。一歩間違えば一触即発となりかねないこの現実を、両国間にバスを通し、両国の住民が自国愛を存分に叫びながら、同時に隣国との共存を確認する観光行事に、変えてしまったのだ。

 儀式自体の原型は、分離独立前の英領インドとアフガニスタンとの間の国境で行われていたらしい(というのは、前述山根先生の解説)。否応なく境界で緊張を強いられている地元社会の知恵と、国のトップの平和への追求が、このような儀式を可能にしたといえよう。

 このアイディア、広くさまざまな国境紛争で応用できるのではないか。

 イスラエルがパレスチナ占領地にユダヤ人社会とパレスチナ人社会を隔てるために築いた壁。これが透けてお互いの姿が見え、毎日一回は門が空いてお互いの顔が見えるようなことにならないものだろうか。そもそも、お互いの警備兵が統率された儀式を行うには、ひそかに合同練習が必要なはずだ。そういう密かな通じ方が、いつか壁を崩すことにならないものだろうかと、同行したアラブ研究者たちとついつい考えてしまった。

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