アステイオン

追悼

原田マハが創作の旅路で出会った「2冊」とは?...美術史家・高階秀爾という「道標の星」

2025年10月17日(金)10時55分
原田マハ(小説家、キュレーター)

アートをテーマにした小説を書くようになってから、幸運にも高階先生と交流する栄を得、直接薫陶を受けることができた。そのことがいっそう私の創作をアートに向かわせた。

以前、芸術雑誌の企画で対談をさせていただいたとき、少年時代に出会った藤田嗣治の絵画の思い出について語っておられたことが忘れられない。それはこんな話だった。

2018年、高階先生は東京と京都で開催された藤田の展覧会へ出かけた。展示会場で、とある風景画の小品を目にした瞬間、それが1943年に新文展で観た作品であることを思い出した。

そのとき先生は11歳で、父親と一緒だった。なかなかいい絵だね、と父がつぶやいたことまでフラッシュバックしたという。

「人間の記憶とは面白いものですね」と先生は笑っておられたが、誰しもがそうではあるまい。アートを愛し、アートとまっすぐに向き合ってきた高階秀爾だけが持っていた「アートメモリー」ともいえる特別な力だったに違いない。

およそ70年の時を経て、アートが少年時代のそのままに語りかけてきたのだ。先生はきっと、時空を飛び越えて古い友人に再会した心持ちになったに違いない。

アートに向けた少年の無垢な眼差しを先生は生涯失うことがなかったのだと、このあたたかなエピソードからうかがい知れる。

先生の著作に感じられる、極めて理知的なのにすっと胸に馴染む心地よさ、人肌にも似た不思議なあたたかさはなんだろうと思っていたが、それは人間・高階秀爾の体温だったのかもしれない。

青年期、壮年期のみならず、晩年になっても精力的に仕事をなさっていたと聞く。

大原美術館の館長(2024年からは大原芸術研究所所長)職以外にも、講演、講義、マスコミ出演、美術書の推薦文等々、先生の仕事の領域は多岐にわたっていた。

そんな中で、先生は、日々原稿を執筆し、新刊の準備をし、展覧会のオープニングに足を運び、古美術であれ、現代アートであれ、同等の熱量を持って接し、好奇心の目を輝かせておられたのだろう。

パソコンを開くとき、アートに向き合うとき、私はいつも高階先生のイメージを追いかけ、励まされていた──と冒頭で書いた。それがなぜだか、いまならわかる。

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