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国際政治

キーウに1年半住んだ日本人研究者が見た、ウクライナ人の戦争と日常、戦後の展望

2022年11月18日(金)08時09分
合六 強(二松学舎大学国際政治経済学部准教授)

2014年以降のプーチンの振る舞いで、ウクライナ国民としてのアイデンティティは強まり、ロシアへの不信感や警戒感は常にあった。軍は改革を進め、NATO諸国とも実際的な協力を進めてきた。また長年20%前後で推移してきたNATO加盟支持の世論は、2014年春を境に反対派を上回り、今回の戦争直前には62%まで達した。

同じ頃、ロシアの軍事介入に何らかの形で抵抗すると回答した人の割合は半数に上った。それでもいったいどれだけの人が、ロシア軍が首都に向かってくると信じていただろうか。さらなる侵攻が東部に限定されたとき、ウクライナの人々がどれほど抵抗するのか、私自身計れずにいた。

しかし、2022年2月24日に始まったロシアによる攻撃は、ウクライナ全土に及んだ。当初、首都陥落は時間の問題というのが大方の見方で、米英もその時に備え、ゼレンシキー大統領らの退避と亡命政府を視野に入れた支援を申し出たという。だが彼はキーウにとどまることを決め、国民と軍を鼓舞しながら、国際社会に向けては武器供与を含む支援を訴え続けてきた。

迫り来る侵攻の脅威に晒され続けるウクライナ各地の人々もまた、勝利を信じて徹底抗戦を選んだ。家族をポーランド国境まで送り届け、ロシアへの抵抗のため国に戻る人々の姿が報じられたが、私と同世代の友人もやはりその一人だった。

キーウの会議で出会った彼は、先祖代々暮らしてきた故郷チェルニヒウに戻り、3月の激戦を戦い抜いた。街が包囲され激しい砲撃に晒されても降伏は考えなかったという。こうした人々の命懸けの抵抗がなければ、西側諸国からの武器支援も本格化しなかったかもしれない。

いずれにせよ、「特別軍事作戦」の名の下で短期のうちにゼレンシキー政権を排除し、ウクライナを属国化するというプーチンの目論見は外れた。

「ネオナチ」政権からの「解放者」として歓迎されるとプーチンが本気で信じていたのかは分からないが自らの行動によって、ウクライナ国民のアイデンティティと抵抗の意志が強まっていたことに無頓着だったとは言えるだろう。

それでもプーチンに攻撃の手を緩める気配はない。戦争は、東部や南部を舞台に激しい消耗戦となっており、本稿執筆時点で全面侵攻開始から半年を迎えた。住宅、学校、病院などが日々破壊され、無辜(むこ)の市民が多く犠牲となっている。長期化への懸念が広がるなかで、ともかく一刻も早い停戦を求める声が出てくるのは直感的には理解できなくもない。

日本ではプーチン批判とあわせて、外交努力で戦争を回避できず、市民を犠牲に晒し続ける指導者としてゼレンシキーを批判する論調も散見される。そのなかでウクライナ側に領土的妥協を通じた「和平」を求める声も少なからず存在する。

ここで見逃せないのは、7月の段階で84%のウクライナ国民が、平和を達成するためにいかなる領土も譲歩すべきではないと考えている点である。

いくつか理由が考えられるが、まず当然プーチンを全く信用していないからである。たとえ一部領土を譲って平和を回復しても、明日にでも再び攻撃を仕掛けてくるに違いないという疑念が渦巻いている。

ミンスク合意に基づく和平プロセスがそうだったように、停戦が一直線に和平に繋がらないことを学ぶには十分な時間があったし、プーチンがそうした譲歩で満足しないということは「2月24日」に証明された。

また戦争が続くなか、「ブチャの虐殺」のような、ロシア占領下における虐殺、拷問、レイプ、強制連行といった筆舌に尽くし難い蛮行が明るみに出た。

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