アステイオン

著作権

盗用認定で知人が「名誉教授」を剥奪された...コンプライアンスの「拡大解釈」が蝕む「研究の公共性」

2026年01月14日(水)11時00分
渡辺裕(東京大学名誉教授)

もちろんそれはあくまでも理念上の話で、実際にはあらゆる資料が文書館や図書館に納められるわけではないから、骨董市でたまたま入手した人しか見られないというようなことになるのだが、それでも考え方は同じである。

私なども、古書店で大枚をはたいて珍しい本を手に入れ、悦に入って研究に使っていたところが、国立国会図書館デジタルコレクションで誰でも読めるようになってしまった、などという体験をしばしばしている。

だがそれはむしろそちらのほうがあるべき姿なのであって、自分が目を付けたから自分に優先権があるなどというような問題ではそもそもないのである。

そういう歴史のない日本の場合、文書の「公共性」に関わるそのような感覚が稀薄であることは否定できない。特に学問研究の世界では、かつては西洋崇拝的な空気が強く、西洋の文献を日本語にして紹介するだけで偉い先生として尊敬されたから、そこでは資料をもっていることが決め手だった。

今のように洋書が簡単に買えなかった時代には、留学時に現地で入手した資料を独占して小出しに紹介するだけで商売が成り立っていたような人もないではなかった。

そういうネタ本をもっていた大先生が、その本を使って論文を書いた別の研究者に対して、「あれは俺しかもっていないはずだ、けしからん」と激怒したなどというとんでもない話をきくこともあった。

さきに引用した文科省の研究不正対応のガイドライン中の盗用の定義には「当該研究者の了解又は適切な表示なく」という文言があったが、そのなかの「当該研究者の了解」という部分は、その作成にあたってモデルとされたアメリカなどのものにはなく、日本版を作成する際に独自に付け加えられたらしい。

そのようなものがあえて加えられ、それどころかむしろそちらの方が必須の要件であるかのように運用されている状況をみるにつけ、こういう風土がわれわれの「公共性」の感覚を鈍らせてしまっているのではないかと思わされる。

それが欠けた状態のままで、正義の味方を気取って「コンプライアンス」という武器を振り回すことが、文化にとっていかに危険なことであるかを、われわれはもっと自覚しなければならないのではないか。研究者だけの問題ではない。

校歌の研究者が学校に調査に行き、音源の提供を依頼した際に「何かあると困る」と提供を断られるケースが増えてきたとか、講演内での音源使用の許諾を求めたら、こういう話の内容なら使って良いという条件をつけられた、といった話をきくにつけ、厳格化された「コンプライアンス」が本来の趣旨からかけ離れた、あらぬ方向に発揮されることで資料の「公共性」が妨げられ、われわれの文化がどんどん不自由になってゆく、そんな危機感をおぼえる。

それにしても、クロ判定で「冤罪」となった方が私の身近だけでも複数いるという驚くべき事態は、大学などの研究機関が一度審査するだけで、たとえそれに疑義が生じても、第三者機関などで研究倫理の専門家がしっかり検証し直す仕組みが全く整備されていないお粗末な現状ゆえのことである。

真の意味での「コンプライアンス」を標榜するなら、まずはその仕組みをしっかり整え、彼らにも名誉回復の機会を与えてほしいと切に願うのである。


渡辺裕(Hiroshi Watanabe)
1953年生まれ。東京大学文学部卒業、同大学大学院修了。玉川大学文学部助教授、大阪大学文学部助教授、東京大学大学院人文社会系研究科教授、東京音楽大学教授などを歴任。専門は音楽社会史、聴覚文化論。著書に『聴衆の誕生』(春秋社、サントリー学芸賞)、『日本文化 モダン・ラプソディ』(春秋社、芸術選奨文部科学大臣新人賞)、『歌う国民──唱歌、校歌、うたごえ』(中公新書、芸術選奨文部科学大臣賞)、『校歌斉唱!──日本人が育んだ学校文化の謎』(新潮選書)など。


asteion_20251106150640.png


  『アステイオン』103号
  公益財団法人サントリー文化財団・アステイオン編集委員会[編]
  CEメディアハウス[刊]


(※画像をクリックするとアマゾンに飛びます)


【関連記事】
全国の薬学部に伝わる≪たにし踊り≫とは何なのか?...全文検索が掘り起こした「謎の踊り」の水脈
学術的引用すら許されない?...「コンプライアンス」が追い詰める「学問の自由」
大阪城のエレベーターは当時「復元」のあるべき姿とされていた!...名古屋城の「ホンモノ」を問い直す

PAGE TOP