そしてここにはさらに、単なる条文の文言の解釈の話にとどまらない、「ガイドライン」の精神、さらには「研究の公共性」という大きなテーマを揺るがす問題点が含まれているのである。
研究者の独創的なアイディアや方法、成果等を保護し、不正使用から守ることはもちろん重要である。しかし、どんなに独創的な研究も単独で成り立っているわけではなく、そのコミュニティに集う研究者たちが提供してきたさまざまな知見を共有し、利用し合うなかから生み出される。そしてそのように生み出された新しい知見もまたそこに加えられ、その後の研究に利用されてゆく。
それゆえ、個々の研究成果を保護し、不正利用から守ると同時に、皆がそれらを共有財産として存分に利用し、その展開の可能性を広げてゆけるような場を用意することも、研究にとっては同じくらい重要なのである。
個人の独創性を保護することばかりに目が向き、この「公共性」への配慮がおろそかになってしまうと、本来の目的であったはずの研究の活性化がかえって妨げられるという本末転倒な結果になりかねないのである。
今回の「盗用」認定のベースにあるのは、この研究者が骨董市で当該資料に目を付けて入手したこと自体、その独創的な研究活動の成果として保護すべきだという考えである。
たしかにそれはひとつの見方ではあろう。私自身、これまで誰も取り上げなかった資料に着目し、それを分析して新たな視界を切り開くような研究をしてきたという自負をもってもいる。
しかしだからといって、私がその資料を優先的に使用する権利をもつわけではない。研究者の独創性が発揮される場は、その研究資料をいかに料理し、何を引き出せるかという点にこそある。
それならば、できるだけ多様な研究者が資料にアクセスできる機会を確保し、知見を出し合えるような環境を作ってゆくような方向性こそがわれわれには求められているのではないだろうか。
独創性を保護する範囲を資料の発見まで目一杯広げてしまうような考え方はそれに全く逆行するものである。極端になれば、研究者が皆、入手した資料を自分で囲い込み、できるだけ他の研究者に見せないようなことになっていってしまう危険性すらある。
資料の「公共性」に関わるこのような考え方が欧米で確立したのには歴史的背景があった。近代的な市民社会が成立してゆくなか、王侯貴族が富や権力をバックに独占的に所有していた美術品、動物などが解放されたことが美術館、博物館、動物園などの成り立ちであったことはよく知られているが、それと並んで整備されたのが文書館や図書館であった。
かつては一部の特権階級の人が囲い込んでいた文書が公開されて誰もがアクセスできるようになり、皆が同一のスタートラインに並ぶことを可能にすると同時に、公平な検証が目指されたのである。
