アステイオン

食文化

日本人の主食は、実は「米飯」ではなかった...稲作大国の日常を支えてきた「糅飯(かてめし)」とは何か?

2025年12月03日(水)11時00分
神崎宣武(民俗学者)
ごはん

kazoka-shutterstock


<ラーメンやパン用に小麦の輸入が進むまで、「もう半分」を担っていた主食について。『アステイオン』103号より「和食と民俗」を一部抜粋・転載>


「日本人の主食は何か」と問われたら、どう答えるか。おそらく多くの人が、なおも「米の御飯(ごはん)」と答えるだろう。

もちろん、それは一面の真理である。が、歴史を通じてどの時代もすべての日本人が米飯を主食としてきたわけではない。

ただ、大ざっぱに時代を通していうならば、米が主食原料として流通するのは、おもに都市部であった。したがって、米を主食としたのは、主として町の人たち、つまり食料の非生産者だったのである。

そうかといって、都市の住民も米を十分に食べていたわけではない。諸文献を均(なら)して類推すると、江戸中・後期は一日二食。とくに、人口が急増する享保6(1721)年のころには、江戸市中で食事を二食に厳守するように幕府令(倹約令)までが出されているのである。

一方、そのころから町人の腹をつなぐための焼芋屋、そば屋やすし屋などの外食装置が生まれもした。都市においては、米飯をもって主食としたのであるが、それも間食を別に加えなくてはならないほどに不足がちの主食形態だったのである。

日本では、長く稲作に励んできた。古くは、縄文晩期に、すでに水田稲作の跡が明らかにされている。以来、どの時代も稲作は国の基幹産業というものであった。江戸幕府における石高制・扶持米(ふちまい)制をもちだすまでもなかろう。

ただ、いかに増産をはかろうとも、日本の国土は全人口の全食を賄えるだけの米の生産量、つまり水田面積をもちえなかった。

年貢米制を課した江戸時代には、「六公四民」、あるいは「七公三民」という言葉があった。とくに、日本人の人口の7~8割方を占めた農民は、収穫した米の半分以上は供出する義務を負わされていた。その結果、手元に残った米で日常の主食を賄うことがむつかしかったのである。

農民は、どの時代も米食にはほとんど縁遠かったのだ。細かな数字の根拠は省略するが、多くの農山村で、米飯を主食とするならば、だいたい1年の2分の1か3分の1ぐらいの賄い量しか確保できなかった、と推定できる。

それも、ハレ(非日常)の行事日のための米を確保しようとすれば、日常の消費量はさらに限定されることになる。当然、そこでは米の代わりに何かを補充して食べつないでいかなければならなかった。

だが、さいわいにも一方の畑で、米に代わって主食となりえる麦や稗(ひえ)、粟、芋、大根などをそこそこ生産できた。その畑作も、西日本と東日本での違いはあるが、歴史は古い。常畑以前から焼畑(やきはた)を開発していたところが少なくないのだ。むろん、稲作以前からである。

そして、江戸時代の年貢制度のなかでも、それはほとんど対象となっていなかったのである。そのことに、あらためて注目しなくてはならないであろう。

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