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あらゆる新雑誌は旧雑誌への批評である──少なくとも理念的には。
今までの媒体では書きたいことを書けない、届いてほしい読者に届かない、出版界の硬直している部分に風穴をあけたい。これらの不全感が複数の書き手たちに不可視の塊として蓄積してきたときにこそ、新しい雑誌が渇望されるのだ。
ということは、現状に不満をもつ執筆者や編集者がいなければ、雑誌を作ったりリニューアルしたりしても、さほどインパクトはない。
残念ながら、今の雑誌の状況を見ていると、空転を感じざるを得ない。新しさを標榜する雑誌を見ても、その執筆者はたいてい似たり寄ったりの面子であり、しかも彼らの書く内容はどの雑誌であったとしてもほとんど差異がないからだ。
「この媒体でなければ書けないことを書く」という強い意志がそこには欠けている。従来の「期待の地平」から逸れることのない、要は読むまでもなく内容があらかじめ分かってしまう単為生殖の雑誌群──それが読者に真の知的な驚きを生み出すことはないだろう。
文壇だろうと学術界だろうと、今やテクストの外の突発的なスキャンダルばかりが話題になるのは、すでに誌面が半ば生成AIの書いたテクストのようになっているからである。
それにしても、なぜこんなことになったのか。言うまでもなく、雑誌とは生者の世界である。存命の執筆者がいなければ、雑誌は成り立たない。死者の本が再刊されることはあっても、死者の雑誌が出ることはない。
雑誌とはさまざまな意味で、その時代の奏でる「ライブ」なのだ。
だが、身もふたもないことを言えば、今は生者よりも死者のほうが濃密に感じられる時代ではないか──私も生者の端くれとして、こんな情けないことは言いたくないが、後述する1980年代の雑誌のバックナンバーをめくっていると、どうしてもそう感じてしまう。
今、雑誌の活力を維持するのは難しそうだ。
加えて、インターネットがこれだけ浸透すると、書き手は紙の雑誌で書けないホンネも、ネットでは書けると錯覚してしまう。
かく言う私も、これまで出した書籍はたいてい書き下ろしかインターネットの連載がもとになっていて、紙の雑誌の連載を単行本にしたのは『ハロー、ユーラシア』だけだ。
私は結局、文壇にも論壇にも学会にも帰属感がないうえに、そもそも集団というものに不信感や嫌悪感がある。そういうタイプの人間には、雑誌よりも書籍やネットのほうが快適なようだ。
ならば、雑誌はなくてよいのかと言えば、そうではない。書くことは孤独な個人作業であり、ゆえにそれは環境からの支援がなければすぐに枯渇してしまう。
仮に古い時代について書いていたとしても──あるいはそれならばなおさら──、そのテクストには「ライブ」の汗と活気が不可欠なのである。単為生殖的な雑誌ではない、本当の意味でライブ感をもった雑誌だけが、孤独な書き手どうしをつなぐ実り豊かな連帯の場となり得るだろう。
vol.101
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