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原子力

ウクライナと日本の核──感情の前景化にあらがって

2022年11月24日(木)08時03分
武田 徹(ジャーナリスト、専修大学文学部ジャーナリズム学科教授)

1992年3月に戦術核の約3分の2がロシアへ移送された段階でレオニド・クラフチュク大統領は残りの戦術核の引き渡しの中止を宣言した。背景にはクリミア半島を巡るウクライナ・ロシア間の緊張の高まりがあった。クリミア半島はコサックの英雄フメリニツキーがウクライナ国家を建設してから300年となるのを記念して1954年にフルシチョフが 〝ご祝儀〟としてロシアからウクライナへ移管した。

ソ連邦時代には移管といっても単なる行政上の形式的な措置に過ぎなかったが、ソ連邦解体後、ロシア系住民が70%を占めているクリミア半島の奪還をロシアは求めるようになる。そんな状況の中で、残された核兵器を安全保障のために活用すベきとの声がウクライナ国内で上がるようになり、1993年10月の国民投票では国民の66%は核の保有に直接・間接の支持を与えている(新井弘一「ウクライナの核問題」、今井隆吉他編『ポスト冷戦と核』勁草書房)。

だが、ウクライナは結局、核兵器保有を諦める。1994年12月5日にブダペストで米露英3カ国がウクライナの独立、主権、現行の国境を尊重してその安全を保障し、一方でウクライナが自国領土内の戦略核兵器を含むすべての核兵器を撤廃することを確認した覚書に調印した。

この覚書に基づき、96年6月にウクライナはロシアへの戦略核兵器の移送を完了したが、これでロシア・ウクライナ間の核問題が解決したわけではなかった。

史上最悪級の原発事故を起こした4号機こそ〝石棺〟に封印されたが、国内の電力不足のために運転を続けていたチョルノービリ1-3号炉が2000年に運転を止めて以来、ザポリージャ、リウネ、南ウクライナ、フメルニツキの四箇所に存在するウクライナ国内の原発はすべてソ連製のVVER型と呼ばれる加圧水型軽水炉となった。チョルノービリ原発のRMBK(黒鉛減速沸騰軽水圧力管型)原子炉と異なり、加圧水型軽水炉は使用済み燃料の取り出しが難しく、兵器転用がしにくいが、それでも核燃料の扱いは気になるところだ。

ブダペスト覚書で核弾頭をロシアに移送する見返りとして渡された100トンの低濃縮ウランに始まり、ウクライナの発電用核燃料はロシアの核燃料企業TVELが提供してきたが、ウクライナは2005年より米国ウェスティングハウス製燃料の受け入れを開始している。一時貯蔵のためにロシアに送っていた使用済み燃料も2001年にザボロジェ(ザポリージャ)原発でサイト内貯蔵を始め、米企業との合弁で中間貯蔵施設を建設する契約を2005年に結んでいる。

こうしてNATO加入に先駆けてウクライナでは「核」のロシア離れ、欧米接近が進んできた事情がある。そのため今回の侵攻当初にプーチンが口にしていたウクライナ核武装阻止という理由付けも、かつてウクライナが核保有を検討していた歴史的事実を忘れていないロシア人に一定程度の共感を持たれ、ウクライナ国内の原発の制圧を急ぐ姿勢も必ずしも暴挙と考えられていない可能性があるのではないか。

確かにロシア国内の状況は伝わってこない。侵攻開始後、非友好的な報道をした記者を処罰する方針をロシア政府が立てたため、ロシア国内での取材を断念した欧米メディアがあったし、ロシア政府は欧米系のソーシャルメディアとの接続を切断した。

しかし、こうした物理的な状況がより広い視野の中で核問題を捉えるうえでの致命的な障害になっているわけではないはずだ。たとえばその「核」の歴史はここで示したように核軍縮やウクライナ史などの研究書を紐解けば辿れる。

にもかかわらず核問題が前景化されるとき、背景事情が視界の外に追いやられがちとなる。これは核問題を議論する際の宿痾のようなもので、日本国内の核問題でもその傾向が否めない。

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