アステイオン

国際政治

ロシア語とウクライナ語の間に明確な地理的境界線は存在しない──ウクライナ・アイデンティティ(上)

2022年04月18日(月)11時30分
アンドリー・ポルトノフ(ベルリン・フンボルト大学客員教授)※アステイオン81より転載

例えば、レーニンの像は西ウクライナではすぐに取り壊された。しかし、東・南ウクライナでは、通りにあるソ連のモニュメントを移動させたり、名前を変えたりするような試みはほとんど行われなかったのである。

ひとつの国民、ふたつの言語

ウクライナ東部でシンボルを変えることに消極的だったことは、民族(ネイション)としての自己意識の弱さの証である、と1990年代初頭には広く解釈されてきた。この弱さを克服することが、民族(ネイション)としての昏睡状態からの覚醒、ならびに正常な状態への復帰につながると考えられた。

ウクライナの脱ロシア化の理念は、決して公に明確化されているわけでもないし、国策として採用されているわけでもない。しかし、少なからぬ部分の国民の行動を合理化する手法として、脱ロシア化はとりわけ西ウクライナでは非常に人気があった。

「脱ロシア化」(繰り返しになるが、決して国家レベルでは一貫したかたちでは実施されていない)の重要な要素が、ウクライナ語の使用範囲を拡大することであり、同時に30年代以降ソ連によって進められたウクライナ語の標準化の影響を一掃することであった(その代表的な例が、ブレジネフ時代に出版されたウクライナ語の書籍の中にある単語で、使用禁止としたもののリストが出されたことである)。

しかし、「ロシア化を克服」しようとするウクライナでの言語改革の試みは、すべて失敗に終わった。

1990年代に入ったばかりの頃、言語政策のふたつの重要なアプローチが生まれた。ヴォロディームィル・クリューク(Volodymyr Kulyk)に倣って言えば、それぞれのアプローチは「ウクライナ語優遇政策」と「ロシア語優遇政策」と特徴づけることが出来る(もちろん、社会的空間のいかなるカテゴリー化も相対的なものであり、ひとつの集団の内部で差異が存在しないというわけではない、ということに留意されたい(注1))。

ウクライナ語話者は、従来、政府にウクライナ語を優遇する積極的な差別化政策をとるよう求めてきた。ここで重要なのは、言語で誰がウクライナ人かをはっきりさせること、すなわち、ウクライナ語を話すことでウクライナ的なるものを明確にすることであった。

ロシア語話者は、政府がロシア語を差別してきたと考えてきた(ウクライナ語の使用範囲のいかなる拡大もロシア語話者の権利の侵害と捉えられてきた)。

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