さらに、彼女はクサマ・ドレスやテキスタイルも手掛け、それらは全米のデパートやブティックで販売され、1969年には自身のブティックも開店。1968年には自作自演の映画も制作するなど旺盛な活動を展開したが、ハプニングでは警察を呼ばれたり、メディアにゴシップ的に扱われ、バッシングを受けることになる。
その後、親しくしていたジョゼフ・コーネルが亡くなり、草間は1973年に体調を崩し日本に帰国。彼女は、1977年以降病室で暮らしながらも制作を続けることになる。
この時期の作品は死が色濃く影響していたり、抒情的であったり内省的な方向がしばしば指摘されているが、体調不良などの理由で大型の作品が作れなかったことは、自身の作品イメージを量産することができるセラミックスやパステル、コラージュ、シルク・スクリーンの制作や、1978年の『マンハッタン自殺未遂常習犯』に代表される小説や詩など、新しいメディアに取り組むことに繋がる。
また、1980年初頭よりフジテレビギャラリーなどで作品を発表するようになるが、文学作品などで評価を得たものの、美術館からはほとんど注目されず、アートシーンの表舞台からは忘れ去られていたという。
そうした草間の再評価のきっかけとされるのが、1989年、ニューヨークに設立された国際現代芸術センターでの大規模な回顧展である。
※草間彌生の水玉と「私」の呪縛からの解放──永遠の闘い、愛、生きること(2) に続く。
