会うためにゲリラ作戦

何通か手紙を交換した後、イさんはファムさんが自宅を訪れることに同意した。

ファムさんは、慎重に事を運ぶ必要があった。北朝鮮女性と一緒にいるところを見つかったベトナム人同志が、ひどい暴行を受けていたからだ。

北朝鮮の衣服に身を包んだファムさんは、バスに3時間乗り、そこから2キロ歩いてイさんの自宅を訪れた。1973年にベトナムに帰国するまで、ファンさんはその旅を毎月繰り返した。

「彼女の家にはこっそり行った。まるでゲリラのように」と、ファムさんは言う。

ハノイに戻ったァムさんは、失望のどん底にいた。共産党幹部の子息にもかかわらず、ファムさんは入党を拒否し、国が彼に用意していた明るい将来を蹴ってしまった。

「人々が愛し合うことを禁じる社会主義には同意できなかった」と、ファムさんは話す。

5年後の1978年、ファムさんが所属する化学技術の研究所が、北朝鮮への旅行を企画した。

ファムさんは参加したいと申し出て、イさんとの再会に成功した。しかし、イさんは顔を合わせるたびに2度と再び会えないのではないかと考え、悲嘆にくれたという。

ファムさんは北朝鮮指導部宛に、2人の結婚の許しを請う手紙を携えてきていた。「その手紙を見た彼女は、同志よ、私の政府を説得するつもりなのかと聞いてきた」と、ファムさんは振り返る。手紙は出さずじまいだった。ファムさんはその代わり、自分を待つようイさんに頼んだ。

ついに結婚へ

その年の年末、ベトナムが隣国カンボジアに侵攻。カンボジアを支援する中国とベトナムは国境付近で戦争になった。北朝鮮は中国、カンボジアと友好関係にあったため、ファムさんとイさんは文通を止めた。

「母は私を気にかけながら泣いていた。恋の病だと分かっていたと思う」と、イさんは話す。

ファムさんは1992年、ベトナムのスポーツ代表団の通訳として再び北朝鮮を訪れることに成功したが、イさんとの再会は果たせなかった。ハノイに戻ったファムさんを待っていたのは、イさんからの手紙だった。

まだ愛している、という内容だった。

1990年台後半、大規模な飢饉に見舞われた北朝鮮は、政府代表団をハノイに派遣してコメの支援を求めた。だが、すでに経済・政治改革に着手して西側との関係を再構築していたベトナムは、この要請を断った。

イさんと彼女の仲間を心配したファムさんは、友人たちから7トンのコメを集めて北朝鮮に送った。

この善意が、ファムさんとイさんの再会に道を開いた。ファムさんの行いを知った北朝鮮政府は、イさんが国籍を維持することを条件に、2人が結婚してどちらかの国に住むことを認めた。

2002年、ついに2人は平壌のベトナム大使館で結婚した。ハノイで新たな生活を始め、今もそこで暮らしている。

「結局、最後は愛が社会主義に打ち勝った」と、ファムさんは話した。

(翻訳:山口香子、編集:久保信博)

James Pearson and Kham Nguyen

[ハノイ ロイター]

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