木村と湯川は、宇佐美へのとりなしを引き受けてくれた。おかげで、宇佐美は私に対する反対を撤回。9月前半、インタビュー許可の知らせが届いた。

 このプロジェクトは、妻と私のアシスタント、ニューズウィーク本社の国際ニュース担当エドワード・クライン以外には秘密だった。ワシントン・ポスト紙とオフィスが同じだったので、同紙のドン・オーバードーファー記者にテレックスを見られることを考え、エドとの連絡では天皇を示す暗号として「農民」という言葉を使った。

 インタビューの日時は、9月20日土曜日の午前11時に決まった。天皇がアメリカに出発する10日前だ。翌週月曜日には、米ジャーナリスト二十数人による合同記者会見が予定されていた。

 取材日が土曜日に設定されたのは、外務省の誰かがニューズウィークだけの特ダネにならないようにと配慮した結果だろう。通常のスケジュールでは記事の締め切りは金曜日なので、土曜日に記事を書いたのでは、日本で翌週火曜日に発売される号には間に合わない。

 私はエドと相談し、天皇インタビューの分だけ締め切りを延ばしてもらい、翌週発売号に掲載できるようにした。

 テープレコーダーの使用は、大きすぎて邪魔だという理由で却下された。だが私は、ソニー製の小型レコーダーの試作品を入手。目障りにならないよう、天皇と私の椅子の下に置いてもいいという許可を取りつけた。

 テープ起こしが終わるとテープは回収されたが、1年後に入江相政侍従長から返却された。訪米が「大成功だった」からだ。

 天皇と一緒のところを写真に撮りたいと言ったら、一緒に写真が撮れるのは国家元首だけだと言われた。

 そこで私は外務省の内田宏儀典長にかけ合った。写真がないと、実際に天皇に会ってインタビューしたのではなく、質問状に対する答えを天皇から文書で受け取ったのだと思われかねないと言ったのだ。

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 その結果、皇室専属の写真家が撮影したフィルムを渡されることになった。私はそれを予約しておいたスタジオで現像し、新橋のKDD(国際電信電話株式会社)からニューヨークのRCA社に電送して、ニューズウィーク本社に届くように手配した。KDDの担当者は、写真を見ると起立してお辞儀した。

謙虚で控えめという印象

 インタビューの2日前、内田儀典長が私のオフィスを訪れ、とてもいい知らせがあると言った。当日は私の妻も宮内庁のお招きにあずかり、皇后も同席するという。私は帰宅後、妻の昭子にこの知らせを伝えた。

 昭子は「裏がある」のではないかと言った。自分が同席すれば、謁見のようになってしまう。予定の30分をフルに活用して中身の濃いインタビューをしてほしいという。「私は風邪だと伝えて」と、昭子は言った。

 インタビューの前日、私は運転手に土曜日の予定を告げた。休みだからと断られたので、天皇に会うので皇居まで送ってほしいと言った。それを聞いた運転手は驚いて、スーツを買いに行った。彼は散髪にも行き、午後はずっと車を磨いていた。

 インタビュー前夜、私は娘のデビーと息子のジョセフに、パパは明日、天皇にインタビューするんだと自慢した。だが、デビーの返事は「それがどうしたの?」。ジョセフも賛意を示すように、うなずいた。

 翌日の午前11時前、車は皇居に到着。そこから藤山大使の案内で、謁見室に向かった。

 ピンクのじゅうたんが敷かれた「石橋の間」には、入江侍従長と湯川式部官長、通訳担当の真崎秀樹が待っていた。私はテープレコーダーを自分と天皇の椅子の下に置くと、いったん退室して天皇のお出ましを待った。