
「民間人しかいない。降伏する」と代表団を送ったが
虐殺については、当時、国連総会で「ジェノサイド」とする決議が採択された。しかし、決議は言葉だけに過ぎなかった。イスラエル軍が包囲下のパレスチナ難民キャンプに敵対する右派民兵を入れたことについて、イスラエル軍と当時の国防相アリエル・シャロンらイスラエル政府の責任を問う声は強かったが、結局、責任はあいまいにされた。
当時、イスラエルが設立した虐殺事件でのイスラエル軍の関与を検証する「カハン委員会」の報告書(1983年2月)は、イスラエル軍に「虐殺の間接的な責任」があるとした。右派民兵をキャンプに入れ、さらに虐殺が起こっているという報告が出ていたのに、それを制止する措置をとらなかったとして、シャロンは国防相辞任に追い込まれた。しかし、イスラエル軍もシャロンも、虐殺についての「直接的な責任」を問われたわけではない。
報告書では、シャロンはベイルート入りし、虐殺が始まる2日前の9月14日に参謀総長ら軍幹部と協議し、キリスト教右派民兵をキャンプに入れることに同意したと明らかにされている。さらに前日の15日には、シャティーラキャンプから200メートルしか離れていないイスラエル軍陣地からキャンプを見下ろしながら、当時のベギン首相に「キャンプでは抵抗はない。作戦は順調に行っている」と電話し続けていた。
改めて読み返してみても、奇妙な調査結果であり、奇妙な国際社会の対応だと思わざるを得ない。シャロンはその後、イスラエルの首相となり、9.11事件の後、対テロ戦争を始めたブッシュ米大統領と呼応して、ヨルダン川西岸に軍事侵攻を繰り返し、パレスチナ自治政府大統領のアラファトをヨルダン川西岸で包囲して、82年のベイルート包囲を再現することになった。
【参考記事】パレスチナ絶望の20年
サブラ・シャティーラの虐殺は、34年たっても、パレスチナ人の記憶に残り、毎年、更新されていく。それは、人々の間に深い傷跡を残しているだけでなく、「パレスチナ人の受難」が現在まで繰り返され、「サブラ・シャティーラ」がそれを象徴する出来事となっているためであろう。
いまもシャティーラキャンプで虐殺について聞くと、虐殺前日の夕方、キャンプの会合でイスラエル軍に降伏を申し出る代表を送ったという話が出てくる。会合に参加した人物の話では、約50人が集まって、キャンプを包囲しているイスラエル軍に「キャンプには民間人しかいない。降伏する」と伝えるために、5人の代表を選んだという。キャンプには民間人しか残っていない。200メートルしか離れていないイスラエル軍の陣地に代表団を送ったのは、ただならぬ状況の中での決断だった。しかし、代表たちは出発したまま、戻らなかった。
人々の口から、この話がたびたび出てくるのは、丸腰の市民が争いを避けようとする必死の思いが踏みにじられたことの無念さのゆえであろう。