「目の前の試合をやることしかできない」?──アスリートも例外ではない「現場プロフェッショナルロマン主義」の罪

2021年7月15日(木)12時10分
藤崎剛人

<コロナ感染爆発のただ中で、感染対策もザルだらけのまま、オリンピックを開催することになったのは選手の責任でもある>

7月6日、体操の内村航平選手が、オリンピック壮行会に出席し、オリンピック開催の是非を問われ、「一つひとつの目の前の試合をやることしか僕にはできることがない」「選手が何を言おうか世界は変わらない。選手はそれぞれができることを一人ひとりがやり、感動を届けることしかできないのかなと思いますね」と述べた。

5月に書いた記事の通り、オリンピック開催をめぐる利害は、もはや実存的な政治対立に帰着している。しかも首都圏での感染者数の急増、穴だらけだということが分かった「バブル方式」のコロナ対策、そしてワクチン不足は、それをますますエスカレートさせている。こうした状況下では、オリンピック利害関係者たる選手にも開催責任がある。

内村選手の発言で気になったのは、、「目の前の試合をやることしかできない」というフレーズだ。スポーツ選手が使いがちな定型句のひとつだが、この「目の前の○○をすることしかできない」というフレーズに潜んでいる道徳意識には注意するべきだと私は思っている。この道徳意識こそが、日本社会や日本の政治に蔓延している矛盾や腐敗を存置させている原因のひとつではないかと考えている。

「各人は与えられた領分を守るべし」という通俗道徳

国内でも国外でもよくみられる日本評として、「日本社会は個人主義が発展していない」というものがある。要するに、日本では人間が個人ではなくその人の属性でみられる、ということだ。例えば国籍、職業、学校名、会社の役職、家族内での役割といったように。

そうした役割規定に応じて「それぞれの人間の本分はそれぞれの役割を全うすることである」という規範が生まれる。医者の本分は病人の治療。学生の本分は勉強であり、母親の本分は家庭を守ること......。それ以外の方法で社会に関わろうとすることは、「分不相応」だということになるのだ。例えば、スポーツ選手が、「政治的」発言をすると、掌を返すかのように「選手としての本分を全うしていない」と批判されることになる。

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