NY地下鉄で死ぬ直前の男の写真が撮られたとき、他の乗客は何をしていたか

2012年12月5日(水)16時56分
瀧口範子

 ニューヨークのタブロイド紙『ニューヨークポスト』が火曜、前日に地下鉄駅で起きた事故を報じた。いや、正確には事故になる瞬間を報じたと言った方が正しいだろう。

 乗客同士の言い争いで50代の男性がホームから突き飛ばされ、そこに入ってきた電車に挟まれて死亡した。ニューヨークポストが1面で大きく掲載した写真は、ホームに手をかけ数メートル先に迫った電車のほうを振り返った男性の姿を捉えている。タイトルは、「万事休す、線路に突き落とされた男が死に行く瞬間」。

 この事件は、いくつもの意味でいたたまれない気持ちにさせる。

 まずジャーナリズムの観点から、こんな写真を載せる必要があったのかという点。数秒後に死のうとしている人間の姿を晒すことに、センセーショナリズムを煽る以外の意味があるのか。

 もし事故の様子を伝えることが目的だったのならば、文章で説明し、写真は意図的に掲載しないという選択肢もあっただろう。だが同紙は、悲劇の「その瞬間」を捉えた画像が与えるショックをネタにしたかっただけとしか思えない。販売部数の増加を願うあまり、まともな判断力をなくした状態だったのではないか。

 写真を撮ったカメラマンはどうか。たまたま現場に居合わせたこのプロカメラマンは、人が線路に落ちたところへ電車が入ってくるのを見て、必死に駆け寄ったという。その間、カメラのフラッシュを何度も焚いて、電車の運転手に危険を知らせようとしたのだと言っている。その時の副産物が、問題の写真というわけだ。

 カメラなど出している暇があったら、なぜこの乗客を救出しなかったのか、という非難の声が一斉に上がった。彼が写真をニューヨークポスト紙に売ったのも、所詮は金欲しさからの行動だった証拠ではないのか、と。

 同じような批判は以前にもあった。たとえば1993年、飢餓に苦しむスーダンの村で撮影した写真がピューリッツァー賞を受賞した。写真に写っているのはガリガリにやせた幼児。食料補給場へ向かう途中で歩けなくなり、しゃがみ込んでしまったその背後から禿鷲が様子をうかがっている。この時も、少女を助けるほうが先ではないかという批判が起こった。このカメラマンは10年後に自殺してしまう。

 ニューヨーク地下鉄での事故について、カメラマンがその時何を思って、実際にどう行動したのかはわからない。列車が乗客をはねるまでには間に合わなかったのかもしれないし、線路に落ちた人間を引き上げるほどの力は彼にはなかったとも言われている。

 それでも最大の疑問が残る。プラットフォームには他の人々はいなかったのか、いたとしたら彼らは何をしていたのか、ということだ。ニューヨークポストの写真では、プラットフォームの遠くのほうに人々が見えるだけだ。

 だが実際には、恐れていたことが的中してしまったということのようだ。つまり、近くにいた人の一部は電車が近づいてくるのを見て逃げてしまったこと、そして人命を救おうとしなかったばかりか、スマートフォンなどでこの様子を写真やビデオに収めていた人々もいたという。当時の事情が明らかになるにつれ、電車と男性とカメラマンだけではない、もっと広い背景が見えてきたのだ。その意味では、カメラマンだけを責めるのは筋違いだろう。
 
 われわれは、今や「その瞬間」をカメラに収めるのがすっかり習慣になってしまった。スマートフォンのカメラは、もうわれわれの目である。だがそれと同時に、ちょっとした勘違いを起こしている。それは「その瞬間」を捉えた記録を「後で」シェアすることに意識の重心が移ってしまい、その瞬間自体への認識力が弱体化しているということ、そして「この瞬間」と「後で」との間の時差にまったく気づいていないということだ。

 もちろん、人が電車にはねられそうになっているその時に、何をすべきかをまともに考えられる人は少ないだろう。恐怖が思考を飲み込んでしまい、できることと言ったらいつものようにスマートフォンを向けることだけかもしれない。何も考えずに。言ってみれば、本来役に立つはずの道具が、われわれの認識力を邪魔している。

 だからこそ、「その瞬間」を記録するだけでなく、その対象に対する自分の意識や反応力を、今はかなり意図的に磨いておかなければならない時代だと思うのだ。振り返って考えてみると、ニューヨークポストが写真を掲載したのも、誰もが「この瞬間」を写真に収めてシェアするような時代に、それに対抗できるインパクトを与えようとした無意識的な判断だったのだろうとも思える。何かすべてがズレ始めている。

 線路に落ちた男性はクイーンズに住む韓国系のアメリカ人で、家に帰るところだった。酒に酔っていたともいう。後ろ姿だけが見える彼の最期の姿は、そろって節度や意識を失いかけているわれわれへの警鐘として覚えておきたい。

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