アステイオン

アステイオン・トーク

日本発祥の年末恒例「第九コンサート」はウィーンでも行なわれるようになった...芸術の活力は「境界」から生まれる

2024年04月03日(水)11時10分
エリス俊子+長木誠司+三浦篤+張競(構成:村上由鶴)

三浦 確かに、これは「国境がない」とも言えますが、ある意味では平準化の方向に行きつつあるようにも感じられる。パラドキシカルではありますが、芸術には国境はないかもしれないけど、もしかしたら境界は必要かもしれないというようなことも考えます。

 確かに、「境界を往還する」という言葉には「バリアを克服する」というニュアンスがあるかと思います。でも、境界があるからこそ、越境によって新しい創造が生まれるという面もありますね。エリス先生はいかがでしょうか。

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エリス その通りだと思います。たとえば、オリエンタリズムは大きな境界の設定だったわけですが、長木先生の論考を拝読して、細川俊夫さんの場合のように、オリエンタリズムが一概にネガティブなものではなく、非常にクリエイティブな活動源・活力源にもなっているんだということを感じました。

それから、ウォント盛香織先生が「多人種化する日系アメリカ人作家」で示されたように、日系人であるというマイノリティー性が境界を再編成していく力にもなる。そして、その境界が制約であると同時にクリエイティビティの源にもなる。

ですから、様々な形で境界の壁にぶち当たったときに起こる一種の化学反応が非常に大きなポテンシャルを持っていると思います。

三浦 そうですね。境界あってこそのクリエーションというか、それがなくなると芸術的な豊かさもそがれるという一種のパラドックスがある。だから、往還も越境もあるのは当然だけど、境界をなくす方向で均質化していくことには違和感を覚えます。

エリス 私は今、世界教養学部というところに所属していますが、「グローバル教養」でも「国際教養」でもなくて、「世界教養」であることに意味があります。

というのも、グローバル化される世界には一元的な圧力が働いていて、いい意味で風通しはよくなりますが、平準化が進んでいく。それに対して、世界教養学部というとき、「世界」という言葉には多様性が込められています。

多様性を意識化していかないと非常につまらない、ある意味では恐ろしい、規範がどんどん同一化されていく地球になってしまうという危機感がありますね。

 文化の平準化が進んでいくことに対する危機感をお示しいただきました。長木先生はいかがですか。

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長木 このような平準化の先に、文化的な差異が消失してしまうのか、オーセンティシティやオリジナリティ、あるいはアイデンティティが本当になくなってしまうのかどうかは、まだわからないところです。

平準化は進行するでしょうけど、壁が壊れると別のところに壁ができるような気もします。

そして、どこかには必ずマイノリティの人たちがいて、その人たちはやはり常に壁を感じているからこそ、彼らの発言がどこかに壁をつくり、それがまた他とは異なって、際立って見えてくるのではないでしょうか。

 マイノリティによる芸術活動が大きな可能性を持つということですね。エリス先生からもご意見をいただければと思います。

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