アステイオン

国際政治学

ロシア正教会に急接近したプーチン──戦争勃発の背景にあった、キリスト教宗派の対立

2023年03月08日(水)08時08分
松本佐保(日本大学国際関係学部教授)

しかしウクライナにはこれら正教会以外に、ユニエイト(東方典礼カトリック)教会があり、典礼方法は正教会と同様だが、教会組織としてローマ教皇を総本山と見なす、いわば正教会とカトリックの中間の存在がある。

ソ連期には徹底的に弾圧されたが、ゴルバチョフ期にバチカンとの交渉と宗教のペレストロイカで弾圧が緩和され、やがてソ連崩壊後はウクライナで信者数を着実に伸ばしてきた。ロシア正教会やプーチンから見ると、信者を盗む許し難い存在である。

ユニエイト教会をめぐる軋轢があるものの、2016年キューバのハバナで、バチカンとロシア正教会の間で歴史上初の会談が実現した。この時点で、中東のIS等イスラム過激派から攻撃を受ける、少数派キリスト教徒を守るという共通の利害があった。特にシリア正教徒はアサド派で、内戦で彼らを守っているのはロシア軍であり、教皇はプーチンに感謝する立場だった。

実際ローマ教皇は、ISが崩壊した後、中東の東方教会との関係強化を図り、そのためイラクの最古のキリスト教会を訪問したり、レバノンのマロン派との典礼のすり合わせ等を行っていた。またイスラム過激派からキリスト教徒を守るという意味では、プーチンは心強い味方でもあった。

2016年のハバナでの両教会の会談は、2014年のロシアによるクリミア半島併合後でもあり、キューバというロシア寄りの国で行われたことから、教皇はキリルとプーチンに利用されたという見方もある。

しかし、そもそも現教皇のフランシスコはアルゼンチン出身で、カトリックの教えとマルクス主義が結び付いたとされる解放の神学シンパである。2013年にこの教皇が誕生したこと自体に、キリルの工作が影響しているのかもしれない。

その後、ISのリーダーがアメリカによって暗殺されるなどし、ISは急速に勢力を低下させていく。イスラム過激主義という共通の最大の脅威が低下すると、ユニエイト教会をめぐるロシア正教会とバチカンの軋轢が再燃。ロシア正教会からすれば「裏切り教会」であるユニエイト教会を、キリルは神聖な正教会を西欧化で汚染する、NATO東方拡大の宗教版であると罵った。

そのためロシア軍のウクライナ侵攻直後、教皇は戦争の仲介を試みるべくオンラインで、キリルに面会し和平を何度か呼びかけた。だが説得するには至っていない。2022年夏に予定されていた教皇のモスクワ訪問はキャンセルされた。2022年9月のカザフスタンでの世界伝統宗教指導者大会でも、キリルは教皇には対面での面会はしないと発表した。

宗教的な対立が、今回の戦争の直接の原因ではない。しかしキリスト教の諸宗派、ロシア正教会、ウクライナ正教会、ユニエイト教会、そしてバチカンを総本山とするカトリック教会は、それぞれの理由から政治的な対立の当事者であって、和解を促進する役割を果たすというよりも、むしろ対立を複雑化させている要因になっている。

長期化の様相を見せる今回の戦争を宗教的な手段によって和平に導くことは、残念ながら困難であると言わざるを得ない。


松本佐保(Saho Matsumoto)
1965年生まれ。聖心女子大学卒業。慶應義塾大学大学院修士課程修了。英国ウォーリック大学博士課程修了。Ph.D.取得。名古屋市立大学大学院人間文化研究科教授を経て、現職。専門は国際政治史。著書に『バチカンと国際政治──宗教と国際機構の交錯』(千倉書房)、『熱狂する「神の国」アメリカ──大統領とキリスト教』(文春新書)、『バチカン近現代史──ローマ教皇たちの「近代」との格闘』(中公新書)、『アメリカを動かす宗教ナショナリズム』(ちくま新書)など。

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 「アステイオン」97号
 特集「ウクライナ戦争──世界の視点から」
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  アステイオン編集委員会 編
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