アステイオン

連載企画

インド生まれの『方丈記』研究者が、日本のアリの研究者を訪ねて考えた「契約」の話

2022年12月14日(水)08時03分
プラダン・ゴウランガ・チャラン(国際日本文化研究センタープロジェクト研究員)

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後藤研究室の風景 提供:後藤彩子


研究の原動力が研究者の好奇心にあるならば、研究とは研究者による自己の探求であると定義できる。自己の探求とは、研究者が自らを取り巻く他者(それが生き物であれば、自然を含む物理的な環境とも言える)を知ることで、生物・非生物により構成された大きな網の中での自分の立ち位置を確認し、自らの生態域をより良くする行為であると私は思う。

その過程で未知の世界を拓くという研究者の喜びは、学問分野を超えた普遍的なものだ。後藤が解明しようとする女王アリの精子貯蔵メカニズムは、いつか人間の世界でも役に立つかも知れない。

ただ、こうした功利的な側面はあくまでも副産物であって、偶然の好奇心から始まる研究者と他者(広く言えば自然[じねん])との相互関係の解明こそが学問のあるべき姿である。これは、自然科学と人文社会科学に共通する学知へのアプローチではないだろうか。

冒頭で宮野の「学問との再契約」について触れたが、この企画に参加するうちに「契約」という言葉についても考えさせられた。

日本国語大辞典によれば、「契約」とは「ある法律上の効果を発生させる目的で、2人以上の当事者の申込み、承諾という意思表示の合致(合意)によって成立する法律行為。」である(※1)。

ただ、宮野も述べた通り、学知へ辿り着くための門は複数あっても学知そのものは不可分であり一つでしかありえない。実は、こうした理解は決して新しいものではない。これは、古代中国をはじめとした東アジア地域における学問の根本的な在り方であった。

今では「人文」というと、人間や人間文化に限定した学問と捉えられがちだが、かつてはあらゆる学問のことを指していた(※2)。

こうした捉え方では学問は一つであるため、「契約」は必要もなければ、する余地もない。我々が最も必要としているのは、こうした総合的な学問ではなかろうか。今回の後藤研究室をはじめ3カ所の理系研究室を訪問して、このように考えるようになった。


※第2回:「研究の面白さがわからなかった」という文系研究者、SF『戦闘妖精・雪風』を思い出す に続く


【参考文献】
(※1)"けい‐やく【契約】", 日本国語大辞典, JapanKnowledge, https://japanknowledge.com , (参照 2022-10-18)。
(※2)河野貴美子、Wiebke Denecke編『日本「文」学史―第一冊「文」の環境』勉誠出版、2015年、1-6頁。


プラダン・ゴウランガ・チャラン(Gouranga Charan Pradhan)
1978年インド生まれ。2013年インド・デリー大学東アジア研究科修士課程修了。2019年総合研究大学院大学国際日本文化研究専攻博士課程修了。博士(学術)。2017~2018年サントリー文化財団サトリーフェロー。専門は日本文学・比較文学・日本研究で、日本の古典文学の国際的な流通と受容はじめ、翻訳論・世界文学論に関する研究を行う。近刊に『世界文学としての方丈記』(法蔵館、2022)がある。


※『アステイオン』97号に連載企画「超えるのではなく辿る、二つの文化」の第2回「解く理系に問う文系」が掲載されています。


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 『アステイオン』97号
 特集「ウクライナ戦争──世界の視点から」
  公益財団法人サントリー文化財団
  アステイオン編集委員会 編
  CCCメディアハウス

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