アステイオン

教養

平行に奥行きのある教養を

2018年01月29日(月)
奈倉有里(早稲田大学非常勤講師・2015、2016年度サントリー文化財団鳥井フェロー)

そういう定義は考えたことがなかったが、本質的な答えだと思った。現代科学では、狭い領域で答えが出ていないことに対して「まだ誰も書いていない」ことを書くのが専門家ということになっているが、なにかあると「それは専門ではありませんから」といって逃げることも多い。しかし本来PhDとはそういうものではなく、狭い範囲でとことん考えつくしたからこそ、少し違う専門でも、おおよその道筋を考えることができるべきではないのか。

もうひとつ、これはうまいなと思ったのが、震災後すぐに被災地にかけつけて焚火の活動をした彫刻家の方の言葉だ。その方は「スキルというものは、隣の芝生に行っても発揮されなきゃだめなんじゃないか」と言った。

この二つの言葉に示唆されて考えてみたいのが教養と専門の関係だ。

教養が必要とされる理由は何か。まず、時代が抱え込んだ問題を、距離を置いて見る態度がある。直近の利害に左右されず、予測できないような状況に社会がきたときに選択肢をたくさん持っていることが重要だ。明治大正の教養人も、ギリシャ時代やシェイクスピアを引いて「そういうケースはここにもあって、こういう対処をした」と、別の視点を提示できた。

しかし現代が抱える問題は、別の視点から見直すのが難しいほど複雑化している。経済市場にしても政治にしても、学者に訊けばすべてがわかるわけではないし、要因が複雑で、距離を置いて見るのも容易いことではない。1960年代ごろから、「現代はひとつの専門的領域からは見渡すことができない問題に向かい合わなくてはならないトランスサイエンスの時代である」と言われている。ではどうしたら少しでも見晴らしの良い場所に立てるのか。

まず、複眼が必要である。そのためには、自らの歴史的なコンテクスト――オルテガのいう歴史の「高さ」を知ることが重要だろう。ある問題の歴史的文脈や種類を、全体の中にマッピングする。さらにその限界を示すことができるのが科学者の科学者たるゆえんである。そのためには自分の研究を一歩後ろに下がって見る必要がある。いわゆる「離見の見」だ――世阿弥は、舞っているときに舞っている自分を後ろから見ないといけない、という言い方をした。この言葉にしびれたレヴィ=ストロースは、「遥かなる視線」と書いているが、いずれにせよ自分の研究の位置を見定めることが、見晴らしのいい場所に立つための前提条件になると思う。

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