合わせながら、揃えすぎない。それは最初に出会った歌舞伎音楽に限らず、さまざまな日本の伝統音楽に通じる特徴である。そのあり方にも、演奏パートのなかに階層的な関係がありつつ、相互にコミュニケーションをとる余地があることが関係しているように思う。
藤田隆則『能のノリと地拍子―リズムの民族音楽学』(2010)から、能の音楽について見てみよう。
能の音楽は、歌謡である謡(うたい)と、それを効果的にひき立たせる打楽器・笛の囃子(はやし)で成り立つ。「囃子」は、ある対象を引き立たせることを意味する「栄やす」からきているとされ、いわば従属的な位置にある。基本的には、謡が「どのようなリズムやテンポでうたったとしても、合わせてついていく」(p.130)ように対応できるのが囃子である。
しかし、ここでいう「合わせてついていく」とは、常に謡へ揃え続けるということではない。タイミングを揃えるべきところもあれば、多少の「ずれ」がむしろ余韻として評価されうるところもある。
そして興味深いことに、謡をよく聞いて合わせるべきとされるのは、打楽器を打つタイミングではない。むしろ、一連の音を出すよりも前、心の中で備える準備の拍なのである(これを「コミをとる」という)。
また、囃子が細かく拍を刻むリズムパターンを打つようなところでは、謡から囃子に注意を払う必要がある。コミをとるタイミングは先行するパートに依存しており、その速度の影響を逃れることはできない。しかし、それは自分がコミをとる番に、後続するパートに影響できるということでもある。
つまり、ある種の「主従関係」があるなかでも、全体のリズムをつくるうえでの主導権を、だれか一人が持ち続けることはできないのだ。主導権がめぐる様子を、藤田は次のように描写する。
その結果、「コミ」をとった直後には演奏のなかでの主導権をにぎることができる。
心のなかで「ン」をゆっくり言うことによって、しぜんにそのあとの掛け声と打奏音の連続もゆっくりになっていく。軽く言えばその逆になる。そして共演者も当然その影響をうけてそれにしたがうことになる。
しかしながら共演者はその影響をはねかえすことができる。彼のパートにも「コミ」をとる順番が当然めぐってくる。そこでもとのペースにもどしたりすることが可能なのだ。(pp.92-93)
こうした、音を生みだすまでのプロセス、演奏の身体性は、近年の音楽研究においてますます注目を集めつつある。