「戦争が終わっていなければロケットとミサイルを作っていた」という天才エンジニアとしてマテル社を支えた彼は、バービー人形の成功を受け巨万の富を築き、高級住宅街に城のごとき大豪邸を建て、連日パーティーを開いてセックスとアルコールに溺れた。
彼の最初の妻の名前もバーバラで、ルースの娘と並んでバービーという名の由来として小説中で描かれる。
この「バービー人形の父」は、人形の起源をめぐってやがてルースと仲違いし、また報酬をめぐってマテル社に訴訟を起こした。彼の活躍もしっかり描かれているのは、本作がマテル社の「正史」を描くものでも、ルースを礼賛するだけの作品でもないことを証している。
とはいえ、『この子の名前はバービー』の主人公は、やはりルース・ハンドラーと言うべきだろう。
史実なのでネタバレにならないはずだが、結末で描かれるルースは、乳癌を患って乳房を切除した経験を受け、マテル社を去ったのち、人工乳房を扱う会社Nearly Me(あえて訳せば「ほとんど私」)を興す。人工乳房を大量生産する企業は前例がなかった。
ルースを軸として、少女たちが欲しがる「おっぱいのある人形」で始まり、女性たちに必要な人工乳房で幕を下ろす本作は、アメリカ史の一側面を鮮やかにかいま見せてくれる。
今井亮一(Ryoichi Imai)
立正大学文学部文学科英語英米文学専攻コース特任講師。「アメリカ・モダニズム文学と戦後日本文学の近親性をめぐって ―フォークナーと中上健次の比較研究を基軸に―」にて、2014-15年度サントリー文化財団鳥井フェローに採択。著書に『路地と世界――世界文学論から読む中上健次』(松籟社)など。訳書に『スヌーピーがいたアメリカ――『ピーナッツ』で読みとく現代史』(慶應義塾大学出版会)など。
Let's Call Her Barbie
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