アステイオン

昆虫学

「北海道熱」の時代と日本の近代昆虫学の父

2023年05月03日(水)08時00分
奥本大三郎(ファーブル昆虫館館長)

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図1 札幌農学校入学案内書表紙(左)、図2 農家の少年(「札幌農学校入学案内書」より)(右)


札幌農学校 

松村がテストを受けた頃、札幌農学校は、随時入学が可能だった。1学年50人そこそこであったが、定員は満たされてはおらず、学校当局としては学生が欲しかったのであるが、まだまだ〝北海の天地〟を目指す学生で、学力のあるものはそんなに多くはなかった。(図1、図2)

北海道開拓のために設立された札幌農学校が官費生を募集し、開校にこぎつけたのは、明治8年、1875年のことである。それに応じた第1期の学生達の中に、2人の秀才がいた。

一人は佐藤昌介、もう一人は大島正健といった。2人とも、東京英語学校の生徒であって、この学校の卒業生は、のちに帝国大学となる開成学校への、無試験入学を許されていたのだが、佐藤も大島も、北の新天地開拓の夢にかけたのであった。

もっとも、大島は相模の国海老名郷の出身であるが、佐藤のほうは旧南部藩の出身で、北海道は、むしろ東京より身近である。かつての蝦夷地には、東北諸藩の士族が多く入植している。

佐藤は安政3年、1856年の生まれであるが、その父の代は、幕末、維新の時代の大変動期に、幕府側についたために、辛酸をなめている。佐藤たちにしても、薩長閥でなければ出世のおぼつかない官途につく気はなかった。

2人は、来日したばかりのクラーク先生、すなわちマサチューセッツ農科大学学長で、札幌農学校の初代教頭に就任する、ウィリアム・スミス・クラークら、お雇い外国人教師の口頭試問を受けた。

彼らの出身校、東京英語学校での使用言語はすべて英語であったから、2人はリスニングにしても、ライティングにしても素晴らしい実力があった。2人の成績に、外国人教師らは喜んだ──これなら大丈夫だ、アメリカの学生相手と変わらぬ授業ができる。

当時のクリスチャン青年たちの夢想の中にはニューイングランド植民時代のアメリカと北海道のイメージを重ねているようなところがある。

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