アステイオン

家族

家族的非類似性

2020年03月27日(金)
今井亮一(東京大学大学院人文社会系研究科・現代文芸論研究室、 2014-15年度 鳥井フェロー)

Seanachai-iStock.

『未開人の性生活』という、人類学者マリノウスキーの著書がある。小説家の中上健次がこの本を読んで「母系一族」というエッセイを書いた通り、母系社会であるトロブリアンド島民の風俗を探究した書物だ。この中になかなか興味深い話が出ている。

マリノウスキーによれば、トロブリアンドの人々は妊娠に男は必要ないと考えている。女が子供を孕む理由は「霊」であって、精子ではないのだ。彼らにとって性行為は愛の行為でこそあれ、生殖とは切り離されている。したがって、生理学的な父子関係が欠如している。こうして母系制が作られている。

だが、一見これと反するような「作法」がある。それは子が誰に似ているか、という問題だ。彼らは母方の親戚を「同じ身体」、父親を「よそもの」と見なしている以上、子供は母方の親戚に似ていると感じられていそうなものだが、事実はその逆だという。つまり、子は父親には似ていても、母親には似ていないとされる。それどころか「タプタキ・ミギラ」という違反さえある。これは現地語で「彼の顔をその親族にたとえることによって冒瀆すること」といった意味で、母親やきょうだいに似ていると述べるなど侮辱なのだ。

「100年後の日本」をめぐってこの挿話を紹介したのは、母系制になっていると予想するためではない(この父権的な日本で、それだけはあり得ない「可能性としての未来」だと思う)。この話が興味深いのは、「家族は似ている」という当然のような考えさえ、ただの思い込みかもしれないという点だ。それは言い過ぎだとしても、「お母さん/お父さんにそっくりですね」という言葉は、現代日本ではいい意味で使われる場合が多いだろうが、時にそれは冒瀆になるという点だ。もちろん「蛙の子は蛙」という諺もあるように、家族的類似が「侮辱」となる文脈を考えることも難しくない。例えばDVを犯す夫と別れた母親にしてみれば、子供が前夫に似ていると言われるのは、侮蔑とは言わずとも嬉しい指摘ではないかもしれない。それがきっかけのように娘を虐待してしまう母の様子が、面影ラッキーホールの衝撃作「ゴムまり」に歌われているし、中上健次の芥川賞受賞作「岬」は、血縁がもたらすこうした負の類似が重要な主題である。

PAGE TOP