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教育

自己肯定からの脱却──大学改革と人文社会科学のゆくえ──

2017年11月16日(木)
堀江秀史(東京大学大学院総合文化研究科・教養学部付属EALAI 特任助教・2016年度サントリー文化財団鳥井フェロー)

政府発行資料から、この「改革」に必要な要素を抽出するならば、一つにはイノベーションの創出ということがあり、また一つには、社会的要請に応えるということがある。大学は、これらを戦略的、意識的に遂げられるよう、自らの使命(ミッション)を再定義しなければならないとされる。これには、社会保障の予算が増え、また説明責任の重要性が増す中で、国が大学への補助金(運営費交付金)を毎年度削減しているという背景がある。大学は体制を維持するためには自前で予算を調達せねばならない。だから、予算増額の理由づけのための「改革」が行なわれる。政府が厳しい査定を行なっていることを世間に納得してもらうための「改革」。大学が国から得る交付金を適切に使っていることを示すための「改革」。削減の結果として必要となる競争的資金を得るために、大学が外部を説得する材料として使う「改革」。実質的な改善・向上を目指す真の意味での「改革」はほぼないのが現状だ。これで得られるのは短期的な改革プロジェクト遂行のための予算なのだから、若手研究者にはプロジェクト付きの有期ポストしか与えられず(あるいは大学の苦境の中、そのおかげで有期にせよポストを得られているとも言えるのだが、いずれにせよ)、安心して自由に研究するという環境からは遠い。また、研究盛りの中堅の研究者は経営に時間を割くことになり、研究の時間が削られる。大学のパフォーマンスを上げるための「改革」であった筈が、そのためにパフォーマンスの根幹である研究を出来なくなる、という悪循環が生じているのである。根底には、大学運営のための資金の不足がある。それを持ってこられない、あるいは持ってくる意志の乏しい人文社会科学は、先細りを強いられている。

概ね以上の報告に対して、主に大学人の先生方から、学内的な事情や国の「大学」を一纏めにして改革を迫るやり方についての疑問が口にされた。鈴木氏のレポートには、大学は特定の立場に対して短期的な利益をもたらすことを目的としていない、としたうえで、次のように書かれていた。「そもそも、その活動は、その時々の社会の支配的な価値観や常識に照らして、理解されないことが多く、[...]今の社会で通用している価値観におもね[ら]ざるを得ない政治や企業とは本源的にその性質を異にしている」。だが、大学はその資源を社会に求めざるを得ない。従って軋轢が生じるのは必然なのだと。こうした大学と社会の性質の違いや、理系文系の質的な違い、それに伴う、両者が必要とする研究費の違い(もちろん理系が圧倒的に多い)、文系研究者は競争的資金を得る為の煩雑な書類を書いて「僅かな」お金を得るくらいなら研究に時間を割きたがるが、その論理は今の大学運営には通らないということ、そもそも理系は研究費が削られた時点で危機感を覚えるが、文系は上記の事情からポストがなくなりだして初めて危機感を覚えるのは当然であること、だから文理に一律に課される施策はおかしいということ等々、大学運営上の問題や「改革」との質的なずれが指摘された。

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