この出稼ぎ労働者の町ができたのは2002年に地元の西紅門鎮政府が工業団地の一角を「軽紡アパレル産業基地」とし、アパレル工場を誘致したのがきっかけである(阿七「北京新建村:一鍵刪除」捜狐・社会)。工場で働く労働者たちを目当てに、新建村の村民たちが自宅を2、3階建てのアパートに改築し、労働者たちを住まわせた。自宅といっても一軒の農家が数百㎡の土地を持っているので、かなりの大きさの建物が建てられる。やがてそうした建物に商店が入居するようになり、さらに新建村のそこかしこで零細なアパレル縫製工場を経営する人たちも増えてきた。建物の一室や地下などを使って従業員5~30人ぐらいの規模でアパレル縫製やアパレル副資材の加工を行う企業が多数あったようだ(「北京新建村加速騰退」『新京報』2017年11月30日)。私が訪れた時も、建物の壁に「縫製労働者募集」といった張り紙がいくつも残っていた。

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こうして新建村は中小アパレル工場、住宅、商店が密集した賑やかな町になったが、11月18日の火災ののち、わずか2週間のうちに巨大な廃墟になった。

永住する場所ではない

いくら火災の悲劇を繰り返さないためだといっても、4万人も住んでいた町全体をつぶしてしまうのは余りに理不尽である。新建村のなかでアパレル工場や商店で働いていた人たちは住居だけでなく生計の道をも奪われた。町の住民たちが抗議のために立ち上がってもよさそうなものだが、ネット上での報道を読む限り、住民たちはみんなさっさと荷物をまとめ、家電製品やミシンなどを売り払って出ていってしまい、立ち退きを拒否する人はいなかったようだ。

新建村の住民たちは火災が起きる前から早晩立ち退かされることを予期していたようである。実は2017年9月に村役場が新建村の住民に対して、この町は危険住宅地区の改造計画に入っているから移転合意書に署名して出ていくように、と通達していた。火事が取り壊しを早めたことは間違いないが、この町はいずれにせよ取り壊される運命にあったのである。

新建村に住んでいた出稼ぎ労働者たちは、北京市戸籍を持たないよそ者である自分たちはいつでも追い出されうる存在なのだと達観していたのだろう。新建村からさらに45キロ南下した河北省永清県が「アパレルの都」を目指し、アパレルメーカーを誘致しているというので、そちらへ向かった住民も少なくないようだ(王妍・麻策「最後的新建村」i黒馬網)。たくましい移民たちはきっとよその土地でアパレル工場や商店を再興するに違いない。

だが、そうした人々の仮住まいの意識、およびそうした意識を生み出す社会の構造こそが悲惨な火災を招いた根本原因だと思えてならない。つまり、出稼ぎ労働者たちはしょせん自分たちは北京市内に永住することを許されない存在だと思っているから、北京にいられる間になるべく稼ごうとして安い住居に住む。安全性に問題があると感じていても、永住する場所ではないから、北京に住む数年間さえ無事に過ごせればそれでいいと考えてしまう。

だから、北京に1990年代に存在した「浙江村」のように、その場しのぎのいい加減な建築が乱立することになる。北京市に事業機会がある限り、人の流入は止まらない。市政府が時々思い出したように違法建築の建物を取り壊しても、出稼ぎ労働者たちに市民的権利を与えない限り、仮住まいの移民たちの集住地がこれからも生まれ続けるであろう。