『ニューヨーク公共図書館〜』では、ホームレスの利用者への対応が深刻な問題になっている。図書館の幹部会議でその議題が取り上げられたとき、館長は迷いを抱えながら以下のように語る。


「図書館の適切な役割は何だろう。単なる開かれた場所から一歩進んでホームレス政策にどこまで踏み込むべきか。行政や専門機関といかに連携するか。これは全員が直面する問題だ」


「規則や専門機関を設けるのも大事だが、最終的に変えるべきはこの街の文化だと思う。恐ろしい人物もいるが、ご近所の来館者として助けるべき人もいる。だが、どうすればいい?」

さらに、老若男女、移民、障害者などあらゆる利用者と図書館の関係に光があてられる一方で、レクチャーやトークなどの企画を通して、奴隷制から現代に至る歴史に潜む歪曲や排除が掘り下げられていく。その結果、歪曲や排除の上に成り立つ民主主義と公共図書館が掲げる民主主義というふたつの民主主義がせめぎ合い、分断された社会が見えてくることになる。

これに対して、本作でも、占拠が起こる以前にホームレスの利用者への対応が問題になっている。体臭を理由に退館を求められたホームレスが、差別だとして図書館を訴えたのだ。それが、スチュアートと検察官デイヴィスの因縁のはじまりとなり、スチュアートが占拠に同調する伏線にもなっていく。

「公共図書館はこの国の民主主義の最後の砦だ」

さらに、本作でも社会の分断が、その歴史も視野に入れつつ掘り下げられる。特に強烈なのは、冒頭に流れるラッパーのライムフェスト(彼はホームレスのひとりも演じている)の曲「Weaponized」だろう。それは、こんな過激なメッセージで始まる。


「本を燃やせ/燃やし尽くせ/憎い奴らの歴史を消し去れ/記念碑を取っ払い 存在を葬れ/何とか暮らせりゃそれで満足か?/どこまでも開けた空 閉じてくドア/日々に追われるまま死んでく心と体/抵抗したい おれだけの武器を手に」

監督のエステベスは、そんな激しい怒りが、公共図書館という世界のなかでどのように変化していくのかを描こうとする。本作では、占拠によって生まれる内部と外部が巧妙に対置されていく。内部にはある仕掛けが施されている。エステベスは、作家や学者、活動家といった著名人の肖像と名言からなる垂れ幕を用意し、それをあちこちに吊り下げている。

たとえば、フレデリック・ダグラスやソジャーナ・トゥルースは、奴隷制の歴史を思い起こさせるだろう。ホームレスが封鎖する3階の出入口の脇には、パーシー・シェリーの「眠りから覚めたライオンのように立ち上がりなさい。打ち負かされない群れとなって」という言葉が掲げられている。

導入部で目に入るヘンリー・デイヴィッド・ソローの「愛よりも、金よりも、名声よりも、真実がほしい」という言葉は、後半で意味を持つ。話題性だけを求める女性レポーターは、人質監禁というデイヴィスの情報を鵜呑みにし、内部の様子を撮影した映像を入手しても確認しようとはせず、SNSでの反響に狂喜している。

そして本作でも、ふたつの民主主義のせめぎ合いが浮き彫りにされる。刑事や関係者が動静を見守る図書館の警備室で、強制的な排除を主張するデイヴィスが、「法と民主主義を守るのが私の務めです」と発言したときに、図書館の館長がぶち切れ、「公共図書館はこの国の民主主義の最後の砦だ。あんたらチンピラどもに戦場にさせてたまるか」と言い放って、占拠者の一員となるのだ。

エミリオ・エステベスの70年代のアメリカ映画への意識

こうした視点とともに、もうひとつ見逃せないのが、エステベスの70年代への強い愛着だ。彼の監督デビュー作『ウィズダム/夢のかけら』は、80年代の"ボニー&クライド"といわれた。本作の設定やドラマも、明らかに『狼たちの午後』を筆頭とした70年代のアメリカ映画が意識されている。

では、本作の冒頭で「Weaponized」によって提示された激しい怒りはどう変化していくのか。それは、ある場面でスチュアートが朗読するスタインベックの『怒りの葡萄』によって、人種を超えた人々の魂のなかに実る怒りの葡萄に変換され、最終的に「雨が上がり 晴れ渡る世界」という詞で始まるジョニー・ナッシュの70年代のヒット曲「I Can See Clearly Now」の世界に思わぬかたちで回収されていく。

簡単には答えを出しがたい深刻なテーマを扱いながら、70年代の映画や音楽に影響された感性で、ユーモアも交えながらそれをまとめ上げるあたりが、いかにもエミリオ・エステベスらしい。

『パブリック 図書館の奇跡』/予告編はこちら