文化とナショナリズムは見えないところで関係し合うものだ。「本来ナショナリズムとはごく心情的なもので、どういう人間の感情にも濃淡の差こそあれ、それはある」と司馬遼太郎は書く。自分の所属している村が隣村からそしられた時に猛烈と怒る感情がそれで、それ以上に複雑なものではないにしても、人間の集団が他の集団に対抗する時に起こす大きなエネルギーの源にはこの感情がある。
幾多の戦を通し、名将として歴史に名を馳せたシーザー(ユリウス・カエサル)は、人は自分の考えに固持しがちで、自分の都合の良いように世界を見る傾向があることを知り、次の言葉を残した。「人間はみな自分の見たいものしか見ようとしない」。
しかし意図的ではないが、人の目に映る物事の姿が文化によって違うことがある。太陽は何色で描くの?――お絵描きに夢中の娘に私は興味津々に尋ねた。真剣に取り合う様子もなく笑みを浮かべながら娘は答える。「赤に決まっているよ」と。「赤か」と予想外の答えに一瞬戸惑いながら、「あ、そう」と無理やりに納得したフリをする。
自分の出身であるエジプトなどのアラブ文化圏では、太陽といえば黄色か、オレンジ色のかかった黄色で描かれることが多い。少なくとも、赤で描くなどは絶対にない。どこにでもあることでも、言語やその社会が変われば、違って見えるということか。日本で生まれ育った娘の"色彩"の世界にさらに興味が高じて、「じゃ、月は何色?」と問い続ける。「黄色でしょう。普通は黄色で描くよ」と娘は自信満々に言う。これもエジプト育ち、またアラブ育ちの私の色彩感覚とは全く異なるものだ。「いやいや、普通は白でしょう。だって、ほら空を見て、月は白く見えると思わない?」と窓に駆け寄って、必死で実物を見せながら自分の"色彩感覚"の正しさを証明しようとする。
どうやら、太陽や月を見て思い浮かべる色は国や地域によって違うらしい。アラブ人の描く太陽の色は、日本人の描く月の色のようだった。同じ地球の太陽と月でも、見る人によって違って感じられる。これは言語学の法則で言うと、「時や場所を越えて物事が同じ性質であっても、それらを認識する仕組みや機能の違いが生じるときがある」ことを示す具体例だ。住む世界は同じなのに、見え方や聞こえ方など世界の感じ方は人により異なる。結果として、言葉や発想などの仕組みの違いをめぐって文化同士の摩擦は後を絶たない。時には、言葉以外のものにまでその過激な摩擦が及ぶ。
そして、最終的にはカエサルの言うように「人間はみな自分の見たいものしか見ようとしない」。
今年の9.11は偶然にもイスラム暦の新年と重なる。中東アラブ地域をはじめアメリカやヨーロッパ、アジアなどの16億人に及ぶイスラム教徒は、この日に新たな年のスタートを迎える。今の世界に広がる人間とその文化による衝突に心の痛みを抱えながら、同じ9.11を「悲劇の記念日」と見るか、「新年のお祝い」として迎えるか。2つの「特別な時間」が、今日の世界に見られる憎悪の連鎖にも重なる。
9.11と、衝突の連鎖が起きた21世紀は単なる20世紀の延長ではない。過去・現在・未来を同時に生きなければならない、「複合の世紀」だ。これまでの「文明の衝突」に関する議論が過去中心、または未来中心の、どちらか片方の見解によってなされたとすれば、今後は、過去の中の未来、そして未来の中の過去を、同時に読み解こうと努力していかなければならない。

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