一方、物語の舞台となる場所の地域性や空気感を感じさせる描写は、ほとんどない。ボストンやサンフランシスコといった舞台の描写は最小限で、適当に選ばれたようにさえ感じられる。

そのぶん、フーバーの小説には山あり谷ありのラブストーリーや、詳細なセックスシーン、キャッチーな設定、そして荒唐無稽なひねりがぎっしり詰まっている。どれも大衆小説によく使われる要素だが、ここまで大量に詰め込んだ小説はあまりない。

例えば、『ノーベンバー9』は、生涯を共にすることはできないが、年に1度だけ会うことにしたカップルを描く(何度も映画化された『めぐり逢い』と同じ設定だ)。

自虐的なウイットの持ち主である主人公(ジョン・グリーンの小説から抜け出してきたような作家だ)との年に1度の逢瀬で、トラウマを抱えたヒロイン(大火事による負傷で女優としてのキャリアを絶たれた)が再び自信をつけていく展開は、まあいい。

ところが、2人がついに一緒になろうと決意したとき、ヒロインの実家に放火したのは彼だったことが判明する。彼の母親が自殺したのは、ヒロインの父親のせいだと思ったからだという(ただし火を放ったとき、その家には誰もいないと思っていた)。

まさに大衆小説が持つべき要素がてんこ盛りだ。その意味では、フーバーの小説は、読者を喜ばせる要素を最も効率的かつ最大限に届けるメカニズムと言うこともできる。

「だからなに?」とファンは言うかもしれない。「最高なんだからいいじゃない」と。

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 コリーン・フーヴァー (著)

 相山 夏奏 (訳)

 二見書房

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