さらにこの頃横尾は自分の死亡広告や自分の交通事故死の場面を演出した写真を新聞や雑誌に掲載するとともに、1968年には『横尾忠則遺作集』という題で最初の作品集も出している。「死」は表現者としての横尾の誕生でもあり、彼は、当時のことについて、死を先取りすることで死の恐怖を乗り越えようとしていたのではないかと繰り返し語っている。
また、1966年には、劇団状況劇場の公演「腰巻お仙」のポスターを制作した他、南天子画廊の個展で絵画「ピンク・ガールズ」シリーズを発表。悪趣味でどぎつい色彩、浮世絵版画や錦絵といった民衆芸術に通じる世俗的アイコンや土着のイメージ、エロチックで羞恥のかけらもない女性の姿を前面に出すなど、タブーな表現に挑み、賛否両論が巻き起こる。

さらには、その活動をポスターから舞台美術、映画出演、小説執筆、建築デザインへ、露出の場もアングラからTV、雑誌といったマスメディアへと広げ、ジャンルを超えて多彩な活動を展開し、大量生産、大量消費社会が加速していくなかで横尾自身がメディア化していった。
三島由紀夫は、今をして、最も優れた横尾芸術批評であり続けている文章のなかで以下のように記している。
「彼の世俗的な成功は、日本的土俗の悲しみとアメリカン・ポップ・アートの痴呆的白昼的ニヒリズムとを、一直線につなげたところにあった。この奇妙な、木に竹をついだような作業は、戦勝国アメリカ、「独占資本主義的帝国主義的」アメリカの、裏側のポカンとした悲しみとリリシズムの泉に触れえたのだった。はっきり云って、それは、日本的恥部とアメリカ的恥部との、厚顔無恥な結合、あるいは癒着であったといえる」(注3)