そして、1968年に東京国立博物館で開催されたレンブラント・ファン・レインの名作展を母親に連れられて観に行った大竹少年は、その写真のようなリアルな表現に驚き、油絵を描き始める。アンリ・ルソーの絵を見て自分でも描けると思ってやり始めたが、風景画や静物画を描くことに飽き始めていたのはつまらないと感じ始めていた頃、アンディ・ウォーホルやリヒテンシュタイン、トム・ウェッセルマン、クレス・オルデンバーグといったポップ系の現代アーティストたちの存在を知り衝撃を受ける。「好きなものを描く自由なアーティストの在りようがとにかくかっこよく、わけのわからないものを評価するアートの状況に、日本とは異なる、もっと広い世界の存在を感じた」と言う。

それをきっかけに、時間さえあれば一人で東京駅から銀座方面に歩き、画廊巡りをするようになる。そうして、アーティストとして生きている人たちの作品を数多く見て学びながら、美大を目指すようになるのである。

人と違った経験と生き抜く力――アーティストへ

1974年、大竹は東京藝術大学を受験するが不合格となり、武蔵野美術大学造形学部油絵学科に補欠入学。自由を体現するアーティストを目指す自分にとって大事なのは、浪人して藝大という権威に入ることではなく、人と違った経験をすることであるとの考えのもと、一応入学はしたものの、さっさと休学して、北海道の牧場で無休、無給、住み込みで働くという行動に出る。

きっかけは、高校3年の時に音楽雑誌に掲載されていた、北海道に移住して牧場を始めた脱サラ家族の記事を眼にしたことだった。牧場に直接はがきを送って頼み込み、夜行列車で36時間かけて到着した牧場で、翌朝4時から毎日1トンもの牛の糞を運び出すという過酷な労働に従事する。この体験は大竹にとって、その後のアーティスト人生への覚悟や、どのような困難も乗り越えられるような生き抜く力、創作において、理論やコンセプト云々とは違った生命力を獲得することに繋がっていった。

1年後に大竹は東京に戻り復学するが、その2年後の1977年に再び休学し、今度は中華料理店の皿洗いで貯めた資金と餞別を手に、初めて海外に渡る。家賃が払えるかどうかのぎりぎりの生活だったというが、滞在先のロンドンで、後にブライアン・イーノらのレコード・ジャケットデザインを手掛けることになるアーティスト、ラッセル・ミルズや、ペインターで既にスーパースターだったデイヴィッド・ホックニーらと出会い、彼らとの交流を通じて大いに刺激を得る。

そしてこのロンドンで、蚤の市で購入した大量のマッチラベルをノートや本にコラージュした「スクラップブック」を作り始める。本の形態が持ち運びに便利ということもあったようだが、生きているうちに世界中に落ちている印刷物を貼ったら面白いのではと妄想を抱き、自分のやるべきことが見えてきたような気がしたという。