おそらくは私たちが民主主義と呼んできたものの中に、実際にはある種のエリート主義──すなわち「非民主的」な要素が、含まれていたからであろう。

法曹とは一定の富裕さを前提とした高度な学習環境がないと、そもそも目指すことが難しい職業だ。選挙の立候補者が出馬の上で得票数を競うのとは異なり、「あらかじめ」知力や教養に恵まれていないと、必要な資格自体を取得することができない。

そうした司法エリートなら、単に多数派に支持されるという趣旨とは異なる次元での「正しい判断」をしてくれるはずだとする発想が、私たちの中にはどこかにあった。だから、彼らに期待を裏切られるとカッと来て、つい民主主義の方を忘れがちになる。

皮肉な話だが、そうしたエリート主義は、王朝時代の中国で「選挙」と呼ばれた科挙の発想に近い。投票ではなく、体制の基礎にある儒教古典の解釈学(経学)等を問う筆記試験によって、統治エリートを選んだものだ。

今日の日米でいえば、まさしく「憲法典の文言をどう読み解くか」が出題されたともいえよう。東京大学で中国思想史を講じる小島毅氏は、同大の法学部教授に「憲法学って経学ですよね」と水を向けたところ、妙に納得されたとの逸話を記している(『足利義満 消された日本国王』光文社新書)。

日本の同性婚推進派にせよ米国の中絶擁護派にせよ、少なくない「リベラル」な人々が実際のところは、民主主義よりも「科挙」の方を当てにしてきた。自国の国制の根幹をなすテキストを、多少の強引さを伴っても現代の課題に応えるように再解釈し、望まれる「正しい結論」を導いてくれるだろうと一方的に期待して、法曹に依存してきたわけだ。

もちろん、構造的に多数派たり得ないマイノリティの権利を守る上では、多数決原理という意味での民主主義とは異なる、ある種のエリーティズムが不可欠ではある。

しかしもし民主主義の理念を掲げるのであれば、私たちはそうした「法解釈権を占有するエリートへの丸投げ」に対して、一定の含羞を感じて然るべきであったろう。

それ抜きに、平素はあたかも民主主義の実践者のような顔をしながら、裏面では秘かに「望むままの判決を自在に出してくれるエリート」を待望し、多数派形成への努力も軽んじて異見との対話を放棄してきた昨今のリベラル人士の姿は、当人の自意識に反して貧しく卑しい。

それくらいならむしろ、民主主義自体への不信と侮蔑を公言する「堂々たる権威主義」の方が、少なくとも筋は通って自己矛盾がないように見える。

世界のどの先進国でも、近年デモクラシーの内実からリベラルな勢力が衰退し、強権統治への傾きが強まっているのには、そうした理由があろう。

周知のとおり2022年7月10日の参議院選挙で、日本のリベラル諸政党はおそらく悲惨な戦績に見舞われる。

「期待と違う」だけで手のひらを返す人々