
小澤は臆することなく交響曲を指揮し、時には伝統的な解釈から離れることもあった。
当然、批評家は小澤を生意気で薄っぺらな若造呼ばわりした。
バッハやベートーベンをこんなふうに解釈するのは邪道だと、彼らは決め付けた。
ヨーロッパの偉大な巨匠、つまり白人の巨匠の音楽はアジア人には分からない、と。
だが小澤の時代には、そんな偏見はもはや通用しなかった。
小澤は彼の師匠の1人、指揮者レナード・バーンスタインがニューヨークでやってのけたように、クラシックをボストンの「新しい」聴衆に親しまれる音楽にした。
ニューヨークとボストンだけでない。小澤とバーンスタインは世界中でそれを実現した。
小澤は芸術家気取りとは全く無縁で、生きる喜びを全身にあふれさせながら、この偉業を成し遂げた。
彼は地元の住民の誰にも負けない筋金入りのレッドソックス・ファンだった。
球団のキャップをかぶり、学校を訪れて子供たちの合唱を指揮し、若手音楽家の育成に尽力した。
一部の批判をものともせず、ボストンの西のバークシャー山地にあるボストン交響楽団の夏の本拠地タングルウッドで若手を指導し、演奏経験を積ませて技術水準を上げようと努めた。
ビーコンヒルの住民だけでなく、ボストンの全ての市民にとって、クラシック音楽がより身近なものになったのは彼のおかげだ。
彼は今のボストンを、そしてアメリカを形づくった先駆者たちの1人でもある。
階層の壁が崩れつつあり、多様な文化が花開き、誰もがどこにでも、そう、芸術の殿堂にも大手を振って入れる──ボストンをそんな街にしてくれた小澤を人々は決して忘れない。
<本誌2024年3月5日号掲載>
筆者が生まれ育ったこの街の人々は、小澤を愛した。ハッピーで自由気まま、あふれる活力でこの街を包んだ小澤を......。
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