カルバラーは、そのフセインが、ウマイヤ朝軍によって殺害された場所であり、彼が死んだイスラーム暦のムハッラム月10日はアーシューラーと呼ばれ、シーア派最大の祝祭である。毎年この前後には世界中のシーア派信徒がフセインの殉教を追悼する行事に参加する。
したがって、猪木がこの地でイスラームに入信(改宗)したということは、猪木がシーア派のイスラーム教徒となったことを意味している。ただし、猪木がイスラームへの入信をどの程度真剣に考え、またどの程度戒律を遵守していたかはわからない。
「ムハンマド・フセイン猪木」は西側の経済封鎖を非難した?
ちなみに上記の記事では記されていないが、その後のイラクのメディアでは猪木に言及するとき、彼のムスリム名で呼ぶのが一般的になる。
上述のイラーク紙の記事から約1か月後、10月26日付ジュムフーリーヤ紙の6ページに猪木が当時のイラクの国会議長、サァディー・マフディー・サーリフと会見したときの記事があった。そのなかでは、イラク国会議長が昨日(1990年10月25日)、「日本の国会のスポーツ平和委員会議長である「ムハンマド・フセイン猪木氏」を団長とする日本の議員団と会見した」とある。
今となっては当時のイラクのメディアを精査することは困難である。あくまで筆者手持ちの資料を調べて、たまたま見つけた記事なので、もっと早く「ムハンマド・フセイン」という名前が出ていた可能性は否定できない。
ちなみに、この記事のなかで猪木は、イラクに科せられた経済封鎖を非難したことになっているが、実際、彼がそういったかどうかはわからない。日本の主要メディアではそもそもこの会見について触れているもの自体見つからず、このとき猪木がどのような発言をしたかは確認できなかった。
当時のイラクのメディアは自分たちに都合のいいことしか書かないし、猪木もそれについて発言しておらず、この記事を猪木が読んだという確証もない。もう一人の当事者であるイラクの当時の国会議長もすでに死んでいる。
当時在イラク日本大使館にいたアラビスト書記官が通訳などでくっついていた可能性もあるので、機会があれば、訊いてみたい。
いずれにせよ、湾岸危機・湾岸戦争からすでに30年以上が経過し、あれだけ多くの日本人が関わり、また莫大な資金援助を行ったにもかかわらず、事件は歴史のかなたで忘れ去られようとしている。
断片的ではあるものの、このようなかたちで当時の出来事を記録にとどめておくのもきっと何か意味があるにちがいない。