アステイオン

昆虫学

「北海道熱」の時代と日本の近代昆虫学の父

2023年05月03日(水)08時00分
奥本大三郎(ファーブル昆虫館館長)
松村松年

松村松年肖像(昭和29年1月5日撮影)出典:『松村松年自伝』


<700種以上もの昆虫の和名を決定し、『日本昆虫学』を刊行するなど「虫好き」にとっての「神様」は、実はエネルギーに満ちた、とんでもない荒法師だった...。『アステイオン』97号より評伝「昆虫学事始 日本の昆虫研究を支えた人々」を一部抜粋>


松村は、東京にも昆虫採集の道具を持ってきていたが、学校のある富士見町のあたりには蝶の採れるようなところもなく、松年はもっぱら、その頃学生間に流行った「ベースボール」ばかりしていた。

1年ばかりも経った頃、兄の所に明治学院時代の同級生で、後に札幌農学校に進み、北海道庁の官吏になっていた、和田健三という農学士の友人が訪ねてきた。和田は、松年の話を聞くと、「それなら、札幌農学校に来てはどうか。いや是非来い。北海道には未来があるぞ」と、熱心に勧めてくれた。

彼はのちに札幌農学校に水産科が設置された時、初代の教授になっているくらいで、この学校のために力をつくしていたのであろう。

「札幌農学校は、準大学の組織で、卒業すれば農学士になれる」というのが、松村にとっての殺し文句となった。その当時北海道と言えば、はるばる遠い蝦夷地であり、熊の住む未開の原野で、まるで外国のようなところ、というイメージがあった。

しかし、その一方で、それこそ青雲の志に燃える若者の間には、一種の北海道熱とでもいうべきものがあったことも事実である。16歳の松年は、すぐさま、和田に付いて北海道に渡る決心をしたのであった。

札幌の螢雪時代

遠い、遠い蝦夷地

北海道に行くと決まったら、ぐずぐずしている暇はない。松年は早速、9月になって札幌に帰る和田の後に付いて行くことにしたが、当時、北海道はまだ、ほとんど江戸時代そのままの「蝦夷地」であって、東京から北海道までは、今では考えられないほど時間がかかった。

日本鉄道の上野─青森間が全通するのが明治24年のことで、その頃の時刻表を見ても、東京から札幌までは、青森から室蘭までの鉄道連絡船も入れて丸々4日間の旅となっている。

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