長男の勝男は約200間(約360メートル)ほど先の伯父宅に駆け込み難を逃れた。

だが、中野信明は子供より2間(約3.6メートル)ほど遅れてしまう。

村民が現場に駆け付け、約50間(約90メートル)西方に大熊がいるのを発見し、同日午後3時頃に射殺。

しかし中野信明は右大腿(だいたい)部から腰骨まで喰い尽くされ、白骨が露出した姿で発見されたという(『北海タイムス』大正元年9月1日)

大正時代の新聞
当時の新聞でもおどろおどろしく報じられた 写真=著者提供

本当に「加害熊を射殺」したのか

この『北海タイムス』の記事では、「加害熊を射殺した」としている。

しかし、射殺されたのは、本当に加害熊だったのだろうか。

実はまったく別の個体で、本命の加害熊は、まんまと逃げおおせたのではないか。

そして、朝日村で4名、愛別村で3名を喰い殺すという、前代未聞の連続人喰い熊事件を引き起こしたのではないか。

筆者がそう考える理由は以下の通りである。

第1の理由として、人喰い熊の出現確率は極めて低いことが挙げられる。

北海道野生動物研究所の門崎允昭所長によると「現在の北海道の熊の生息数を、2千数百頭と仮定すると、1年のうちに人を襲うのはその内の1.2頭に過ぎない」という(『羆の実像』)。

これが事実なら、人喰い熊となる確率は0.05%に過ぎない。

また、明治初期の熊の生息数は「約5200~6030頭であったと考えられる」(『ヒグマ大全』)という。

これらの数字から計算すると、「朝日村事件」当時の北海道において、人喰い熊はたった3頭程度のはずだ。

その3頭の人喰い熊が、同じ地域に同時多発的に出現し、立て続けに3つの事件を起こした可能性は限りなく低い。むしろ同じ人喰い熊が複数の事件を起こしたと考える方が自然だろう。

胃の内容物に触れていないのは不可解

第2の理由は、記事内容に不可解な点が見られることである。

『北海タイムス』の記事では、捕獲した個体の特徴が一切触れられていない(年齢、性別、身長、体重を掲載するのが当時のヒグマ関連記事の通例である)。

また「右大腿部から腰骨まで全部喰い尽くし白骨が露出していた」なら、相当量の人肉を喰っているはずだ。

加害熊は6時間後には射殺されているが、胃の内容物についての言及がない。

当時の新聞が、事件記事全般について、かなり扇情的な表現で報じる傾向が強かったことを考えると、熊の特徴や胃の内容物に触れていないのは不可解である。射殺されたのが、本当に加害熊だったのかどうか、疑問が残る。

「中年男性だけを食害」していた