もっともバイクデビューを果たしたばかりの彼女は、GPXでさえ持てるポテンシャルを存分に引き出せなかった。

「必死にアクセルを開けているつもりなのに、原付にもバンバン抜かれるからメーターを見てみると、時速30キロも出てない。生まれて初めてバイクで公道を走る私にとって、それが恐怖心を感じずに出せる精一杯のスピードだったんです」

それでもめげず頻繁に箱根へ繰り出し始めるとすぐ、250ccでは登り車線でパワーが足りず、大排気量車に置いていかれる状況に不満を募らせるようになった。

「もちろん一番は、自分の力量の問題です。けれどどうしても『もっと排気量の大きいバイクに乗りたい』って思いが抑えられなくなりまして、当時は一発試験しかなかった限定解除免許を取りに行きました」

学生時代の相棒はナナハン

初回の受験時は事前審査で大型バイクのセンタースタンドすら立てられず、あえなく撃沈。しかしそこから奮起し、男性でも5回、10回の不合格は当たり前だった時代に、わずか3度目の受験で難関を突破する。

限定解除が取れたとなるとライダーたる者、すぐにでも大排気量車が欲しい。しかし人生初のバイクを買ったばかりで、資金がない。

「あきらめかけていたところ、例の店の常連客で複数台のバイクを所有していた方が、『乗り切れないのがあるから、1台譲ってあげるよ。値段はGPXを下取りしてもらった金額でいいから』と申し出てくださったんです。どんなバイクなのかもろくに確かめず、即座に『ぜひお願いします!』と」

新車での購入からまだ4カ月しか経っていなかったけれどGPXを手放し、待望の大型車を引き取りに行ってみると、待っていたのはまたもやカワサキの、Z750GP。以降の学生時代は、ずっとそのナナハンでたくさんの道を走り抜けた。

「自由に、どこへでも行ける気分を味わえる。そして仲間とのツーリングを通して、人との交流ができる。私がバイクに心を奪われたのはそこですね。性能のいいモデルだと、アクセルを開ける楽しみというのもありますし」

意外な志望動機

となると就職活動時に川崎重工を志望したのは、自身がライダーで、カワサキ車を乗り継いできた思い入れもあって、バイク部門の仕事がしたかったからだろうと想像してしまう。しかし、実際の動機は違う。

専攻していたペルシャ語はイランの公用語なので、桐野氏は大学在学時にイランやその隣国であるトルコを度々訪れている。何度目かのトルコ旅行の際、同国のヨーロッパ部分とアジア部分を隔てるボスポラス海峡近くでバスを待っていた時のことだった。

「たまたま居合わせたトルコ人男性と言葉を交わしていると、彼が『海峡にかかっている第二ボスポラス橋を見たか? あれは、あなたの国の日本が架けてくれたものだよ』と教えてくれたんです」

当時、同海峡には2本の橋が架かっていた。新しい方のファティーフ・スルタン・メフメト橋(通称・第二ボスポラス橋)は1988年、日本政府の開発援助によって建設されている。

「その話にすごくロマンを感じて、日本の技術力で新興国に貢献する仕事がしたいと思うようになったんです。実現できるとすれば、重工業系の会社。しかもカワサキ車に乗っていましたから、迷わず川重を志望しました」

川崎重工初の女性駐在員

1991年4月に入社すると、早々に人事部から配属の希望を尋ねられた。

「当時の川重は入社時に勤務地と製品と職種の希望を言えて、その中のひとつは必ずかなえてくれました。私は『東京』『プラント』『営業職』と伝えたんですが、結果は『明石』『オートバイ』『営業職』。確かに就活時の面接でZ750GPに乗っているとは言っていましたから、人事にしてみれば『こいつはオートバイやらせるしかないやろ』って考えますよね」

「なんでここに女がいるの」という視線