ブラジル最大の都市。
それは首都ブラジリアではなく、サンバとボサノヴァの発祥地リオデジャネイロでもない。
ブラジル最大の都市はサンパウロ。

ブラジル最大、いや、南米最大の経済都市として重要にも関わらず、南米観光ではスルーされがちだ。
「日本からリオデジャネイロに行く際、乗り継ぎでサンパウロを通りました」なんて話を何度も聞いた。

確かに、ブラジル最初の首都であったサルヴァドールの由緒ある歴史的建造物や、リオデジャネイロのようなポストカード的な風景と比べるとインパクトに欠ける。
それでも、サンパウロほど絶えずに面白いことが起こり続ける街はないと思う。

では、サンパウロの何が面白くて、見どころはどこなのか?
真っ先に思い浮かぶのは、アートだ。
オーケストラのレベルが高いとか、ギャラリーが多いことだけではなく、街中の至る所にアートがあふれている。
例えば、道路に設置されたごみ箱。燃えるごみは青色、プラスチックは赤色、金属は黄色、と種類ごとに鮮やかな塗装が施され、形が丸だったり四角だったりと一際目立つ。ごみ箱を隠そうとせず、まるでオブジェとしているようだ。

|Hip-Hopはサンパウロにぴったりはまった

IMG_20141230_180939.jpg
早朝のバットマン横町、夕方からイベントが始まる(photo by Aika Shimada)

もしあなたが「じゃあサンパウロに行ってみようかな」と思ってくれたのならば、まずはバットマン横町をおすすめしたい。
ここはグラフィティ(街中の壁やシャッターに描かれた絵)が楽しめるエリアで、パンデミックが落ち着いてきた今は、再びライブや展示で盛り上がっている。

グラフィティの良いところは、作品が日常的な風景の中に存在していること。
バットマン横町で見ることができるようなグラフィティは、70年代にアメリカのニューヨークで誕生したものだ。
グラフィティに加えて、屋外パーティーで披露されるブレイクダンス、DJがかける音源にのせて歌われたラップは"Hip-Hop"と総称され一つの文化となり、今も多くの人を魅了している。

大都市二ューヨークで生まれたHip-Hopは、南米最大都市サンパウロにぴったりとはまったのだ。

|ブラジルHip-Hopのメッカ「サンパウロ」

総合アートとしてアメリカのHip-Hop文化の影響を受け、サンパウロでブラジル独自のHip-Hopが定着し始めたのは80年代。
繁華街でブレイクダンスを始めた若者たちの輪が大きくなり、通行人の妨げになって警察に立ち退きを求められてしまう。
場所を失った彼らがみつけたのは、ひと駅離れた地下鉄サンベント駅前。
舗装されたコンクリートは踊りやすく、地下鉄に入るために作られた大きな螺旋階段には多くの見物客が集まった。

この駅前ステージに集まった顔ぶれは、地下鉄やバスで1時間から2時間近く離れた貧しい郊外エリアに住む若者たち。
多くが混血もしくはアフリカ系ブラジル人で、彼らは勉学や仕事のために街の中心部まで通い、その帰りにこのブレイクダンスに顔を出していた。

音楽を流すためのラジカセに電池が必要だったが、そんなお金は持っていない(彼らがあまりお金を持っていなかったのもあるが、ブラジルで電池は比較的高価)。
無許可で近くの電線から電気を引っ張りラジカセに繋いだ。
それがバレて音楽が流せなくなった際は、アルミ製のごみ箱を叩いてビートを刻みながら踊り続けた。

このブレイクダンスは盛り上がり、多くのジャーナリストが取材に訪れたそうだ。
また、サンベント駅を真似するように、ショッピングセンターや公園などでブレイクダンスの輪が広まっていった。

|アフリカ系ブラジル人の自尊心

彼らがHip-Hopに燃えていたのは、誰もが参加できるという気軽さ以外に、もう一つ重要な意味があった。
Hip-Hopというアフリカ系アメリカ人が中心となって生まれた文化は、アフリカという同じルーツをもつアフリカ系ブラジル人に非常に強い共感を持たれたのだ。

1982年に結成されたアメリカのHip-Hopグループ、パブリック・エネミーは、人種差別について社会にメッセージを投げかけて人気となった。やがて彼らの想いは海を越え、この "ブラック・パワー" の魂がブラジルにも届くこととなる。

それはサンパウロのアフリカ系の若者たちの自尊心を目覚めさせた。
醜いとされてきた縮れた髪を伸ばして丸く綺麗にセットしたり、編み込みにしたりと、アフロなヘアスタイルに誇りを持ち始めた。

そして、自分たちの想いをラップに託すことになる。

ラッパーたちはHip-Hopのイベントで自作曲を披露。即興ラップバトルも開催されるようになる。
バックトラックはアメリカのラップ・ミュージックを参考にするが、歌詞はもちろんポルトガル語。
実はブラジルには日常的な出来事を即興で歌う詩人(彼らはへペンチスタと呼ばれる)が存在する。その文化によって韻を踏む面白さがずっと昔から伝えられていたことの影響もあっただろう。

|ラップ・ミュージックがアンダーグラウンドだった理由

彼らがラップにしたのは、「貧困層の生活」「犯罪や警察との抗争」「格差」「人種差別」など、ブラジルが今もかかえる大きな社会問題が中心となっていた。
その訴えは激しくなり、続々とアーティストやグループが登場。ほとんどのアーティストが仲間内で録音作業を行った。
レコードやテープは手売りだったが、ラップ・ミュージックの人気は日に日に増していった。

90年代に活躍したアーテイストたちは、アンダーグラウンドでは絶大的な人気を博していたが、その歌詞の内容が問題視され、メジャーなラジオ番組では放送ができないと拒否されることが多かった。
例えば、ハシオナイスMC'sは今日活躍する有名ラッパーたちが崇拝する伝説的グループだが、当時彼らが歌ったスラム街の麻薬取引や警察の残虐行為といったテーマを「暴力的」「子供に悪影響だ」と批判する声も多かった。
彼らの言う"日常"を、現実として認められない階層の人達が沢山存在したのである。

=====

|2000年代、ラップの革新

やがて、ラップ・ミュージックの人気に商機を見出した有名プロデューサーや大手レコード会社が介入する。そして自分たちの音楽をより多くの人に聞いてほしいというアーティストたちの模索が始まった。
暴力的な歌詞を排除し、主題が多様化したこと(ポジティブ思考や愛、平和など)でその存在は多くの人々に知られるようになっていく。

2000年代に入ると、サンバやポップスとの融合により今ではブラジルの重要アーティストの一人となった元教師のクリオーロや、日本のNetflixでもドキュメンタリー映画『アマレーロ』(2020)が配信され世界的に活躍するエミシーダらによって、ラップ・ミュージックは親しみやすさが増し、より幅広い層に興味を持たれるようになった。

こうした商業化によってラップのプロテスト精神が失われたのでは、という声も上がったが、実はそんなことはない。
エミシーダは2015年に「Boa Esperança」(大きな希望)、という強烈なビデオクリップを発表している。
ブラジルの富裕層の家で使用人として働く人々の人権無視や雇用の劣悪な状況を訴えたものだ。
これは実際に家政婦として働いていたエミシーダの母や叔母、友人から聞いた話を元に作られており、「ここに描かれているのは、聞いた話の中でまだマシな方ですよ。」とエミシーダは話す。


ポルトガル語がわからなくても、音と映像から問題の重さと叫びが伝わってくるだろう

また、近年は大活躍する女性ラッパーも増えている。
エミシーダのバックアップによって人気歌手となったドゥリカ・バルボーザは、男性的とされてきたヒップホップのイメージを壊すと同時に、無意識のうちに卑下されてきたアフリカ系ブラジル人女性の美しさ、誇りを見せつけ支持されている。

|ラップは新たなステージへ

ここまでに紹介したアーティストは、全員アフリカにルーツをもつブラジル人である。
では、やはりブラジルのラップはアフリカ系ブラジル人だけのものなのだろうか?

ブラジルの奴隷制度が廃止されたのは1888年。
自分の曾祖父母が奴隷制の時代を知っている可能性もあると考えると、遠い昔の話ではないと想像できるだろう。
多様な人種が混じり合うブラジルでも、アフリカ系ブラジル人に対する"黒人差別"は至る所にはびこっているのが現状だ。

先日、今注目のラッパー、ズジジーラのライブを観に行く機会に恵まれた。
会場はブルーノート・サンパウロ(そう、日本にもあるブルーノート系列)。サンパウロでも人気と実力のあるアーティストしか出演できない場所である。

ズジジーラは州民の半分以上が白人の、ブラジル南部リオグランデドスル州に生まれたアフリカ系ブラジル人。
サンパウロに拠点を移して5年目になる今年、『Opera Preta』(黒いオペラ)と称したツアーで、自身がブラジル南部に黒人として生まれた経験をラップで描き各地を回っている。
DJのバックトラックにラップをのせるのではなく、ピアノ、ベース、ドラムのバンドと共に演奏するスタイルは、アメリカではよく見られるそうだが、サンパウロではまだ珍しい。

平日22時半からのショーにも関わらず会場は満席。
全身から湧き出るエネルギーを使ったズジジーラのパフォーマンスに会場は熱気に包まれた。
ライブ中、彼と同じくアフリカ系ブラジル人として生きる息子、そして世界の子供たちが貧困や差別に苦しむことがない未来が訪れるようにと願うと、会場はより大きな声援で埋め尽くされた。

しかし、会場が最も盛り上がったのは、『Smooth Operator』の「君をいろいろな場所に連れていってあげる」という愛に溢れたサビの曲だった。観客たちはこの一節を熱唱し、会場が一体感に包まれた。
その瞬間、黒人系、白人系、黄色人系(私)と、この記事を書くために観客の人種の違いを意識していたことすら間違いだと感じた。
駆け付けたエミシーダも大きな拍手を贈っていた。

IMG_3038.jpg
zudizilla | ópera preta tour Gabriel Gaiardo (p/key), DJ Nyack (DJ) Rob Ashtoffen (b), Murilo "Pé Beat"(ds) (photo by Aika Shimada)

ショーの後、前述したハシオナイスMC'sのカリスマ的ラッパー、マノ・ブラウンの2017年のインタビューを思い出した。
「アフリカをルーツにもつアーティストは黒人差別についての質問をよく受けます。私たち黒人は自分の髪を醜いと思い、自分たちの存在を好きになれずに生きていました。でも今の時代は、その頃に比べて未来があります。私たちは黒人差別以外にも話したいことが沢山あるのです」

そう、彼の言うとおり、"アフリカ系ブラジル人=黒人差別のみを訴えるアーティスト"という決めつけはもう時代遅れだ。

ラップの世界は、もうアフリカ系ブラジル人だけのものではない。

|街を歩けばアート(Hip-Hop)に出くわす

近年、ラップ・ミュージックの人気は着実に上昇している。
同じスラム街で誕生したリオデジャネイロの音楽文化ファンキ・カリオカ*と異なるのは、ファンキ・カリオカが元々コミュニティ内での楽しみのために作られていたのに対して、ラップ、そしてHip-Hopは最初からコミュニティ全体の外に向かって表現をしていた点だろう。

彼らの生活に根差したメッセージを伝えることから始まり、今では人生観や希望、自由を語るものに進化した。
ラップ・ミュージックは、彼らの社会への問いかけであり、それ以前に彼らによるアートなのだ。

先日、地下鉄に乗っていた時、Hip-Hopファッションの男性が車内でラップを披露し始めた。
彼は即興のラップで目の前にいたカップルの幸せを祈った後、私のヘアスタイルを褒めてくれた(彼らはそうやって投げ銭をお願いするんだけど)。
彼がうまく韻を踏んだ面白いラップを歌い終わると、車内では大きな拍手が巻き起こった。私の正面にいた疲れた表情の女性も笑顔で拍手するのを見て、なんだか嬉しくなった(彼はもしかしたらどこかでスカウトされるかもしれない)。

サン・ジョアキン駅で地下鉄を降り、2年ぶりに訪れる東洋人街・リベルダージへと歩いた。
通り沿いにあった横幅3メートル以上もある大きなグラフィティは、まったく新しい作品に描き直されていた。
別の壁には日本にちなんだ歌舞伎風のグラフィティ。それを背景にして、20歳くらいの女の子ふたりが楽しそうにスマホで撮影していた(きっとSNSに投稿するんだろう)。

今日も街中で新しいHip-Hop文化が生まれるアート精神の街。
サンパウロの街歩きは本当に面白い。

*ファンキ・カリオカとは、リオデジャネイロのスラム街で開かれていた巨大な野外パーティーで誕生した音楽。今ではスラム街を飛び越え、サブカルチャーからブラジルのメインカルチャーとされる程となっている。
参照 オリンピックと共に考える、「ファンキ・カリオカはブラジルを代表する文化」と言えるのか