弱さを自覚した日本人の生き残る道は、弱い者同士が肩を寄せ合い、助け合うしかなかった。弱者が強者に勝つ方法は、一致団結することだからだ。こうして、日本人は同調と画一性を重視するようになった。このマインドは、建国以来、異民族に日本本土が侵略されたことが一度もない特殊な歴史によって揺るぎないものになっていった。

同調圧力が最も強くなるのは小集団である。そのため、小学校の班、工場のQCサークル、町内会の組、刑務所の雑居房などが同調圧力の「場」になった。

例えば、小学校の班では連帯責任の原則が妥当し、相互監視が行われてきた。同調圧力に屈しない児童には容赦ない攻撃が加えられる。これが「いじめ」だ。しかし、同調圧力が強いから、誰も「それはおかしい」「やめた方がいい」と声を上げられない。同調圧力は「道徳」という別の名を持つこともあるので厄介だ。

インプットなきアウトプットの弊害

対照的に、海外では同調圧力は嫌悪される。

例えば、筆者が留学したイギリスでは小学校に固定された班はない。必要に応じてランダムにチームが編成されるだけだ。そうした仕掛けによって、イギリス人は自由と多様性を重視するようになる。退職記念にアイスクリームを全校児童に贈る校長もいて、学校の自由度の高さに驚かされる。

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校長自身がアイスクリームを配る。 筆者撮影

こうした姿を理想としたのだろうか。アウトプットの活発化を目指して、日本はさまざまな表現手法を輸入してきた。しかし、これまで述べてきたように、同調圧力を何とかしない限り、アウトプットの積極化は期待できない。

ところが、インターネットの世界で正反対のことが起こった。冒頭で触れたアウトプット中毒である。匿名性が許されるサイバー空間では同調圧力が弱いため、アウトプットが突出したのだ。インプットが伴えば理想的な展開だったが、現実にはインプットなきアウトプットが支配的だった。インプットがないので、理性よりも感情が、熟考よりも直感が前面に出る。しかしそれでは、生産的・建設的な議論はできない。

一見すると、問題を議論しているように見える場合でも、よくよく見ると、揚げ足取りに躍起となって、がっぷり四つに組んでいなかったりする。例えば、相手の主張をゆがめて引用したり、論点をすり替えたりして反論する「ストローマン(わら人形)」や、数多くの事例の中から自分の主張に有利な事例のみを取り出して論じる「チェリー・ピッキング(サクランボのいいとこ取り)」がまかり通っている。やはり、インプットなきアウトプットでは、子どものけんかと大同小異だ。

期待される「Surfvote」