
イタリア事情斜め読み
イタリア治安政策の転換点―メローニ政権が打ち出した「市民を守る刑法改革」
|スリ対策と正当防衛の拡張が示す欧州型治安モデルの変化
イタリアは長年、観光都市を中心にスリ被害の多発という深刻な問題に直面してきた。ローマやミラノ、フィレンツェといった世界的観光地では、地下鉄や駅、バスなど公共交通機関でのボルセッジョ(観光客を狙った器用な窃盗)が日常的に発生してきた。犯罪そのものの被害だけでなく、制度上の矛盾も市民の不満を高めていた。被害者が犯人を取り押さえて警察に引き渡した場合でも、過剰防衛や不法拘束の疑いで捜査対象となる可能性があったためである。こうした「被害者が疑われる」という構図は長く議論の対象となり、世論の強い反発を招いてきた。
2026年2月、メローニ政権はこの問題に対応する形で「治安対策デクレート(decreto sicurezza)」を承認した。この法改正の核心は、正当防衛や職務遂行、必要状態などの「原因による正当化事由(cause di giustificazione)」が明らかな場合、被疑者として自動的に登録簿へ記載しない仕組みを導入した点にある。従来の制度では、正当防衛の可能性が高い事件でも形式的に被疑者として登録されることが多く、当事者は長期間の捜査による精神的・社会的負担を強いられてきた。
新制度では、検察官がまず「予備注記(annotazione preliminare)」という枠で事案を扱い、調査を進める。調査期間は120日で、必要に応じて30日延長できる。この期間内に正当性が明らかになれば起訴に至らず手続きが終了する。起訴が必要と判断された場合にのみ正式な被疑者登録へ移行する。
この制度は俗に「刑法的盾(scudo penale)」と呼ばれる。警察官や軍人だけでなく一般市民にも適用される点が特徴である。犯罪を止めようとした市民が直ちに刑事手続きの当事者となる事態を避けることが狙いであり、社会的には「被害者を守る制度」として評価されている。特に観光地では、スリを追跡して取り押さえる行動が広く見られるため、この変更は実務上の影響が大きい。
もう一つの重要な改革は、スリ(furto con destrezza)の扱いである。従来この犯罪は原則として告訴が必要な犯罪だった。被害者が手続きを行わなければ捜査が進まないため、海外からイタリアに来た観光客が帰国してしまう場合などに事件が立件されないケースが多かった。改正法は一定条件の下でスリを職権起訴可能(procedibile d'ufficio)とした。
クレジットカードや身分証明書、携帯電話、現金など重大な財産損害を伴う場合、警察や検察は被害者の告訴を待たずに捜査を開始できる。
これにより、犯人が被害者を逆告訴する可能性も大幅に低下した。
実務面では、警察到着までの必要最小限の拘束行為も明確に保護される。腕をつかんだり、逃げないように地面に押さえたりする程度の行為なら、必要な範囲の行動として正当防衛と認められやすくなった。市民が犯罪を止める行動を取りやすくなるというわけだ。もちろん過剰な暴力は依然として処罰の対象であるが、従来よりも明確に自衛の範囲が示されたと言える。
メローニ首相はこの改革を象徴する言葉として、「犯罪者を止めた被害者が、逆に拘束罪で訴えられてしまうという不合理な状況を終わらせる。」と、Mediaset 系列のチャンネル Rete 4で放送されている政治討論番組『Dritto e Rovescio(表と裏)』の中で述べた。
地下鉄や駅でスリを追いかける映像がたびたび拡散されるたび、なぜ被害者が疑われるのかという疑問が世論を刺激してきた。今回の改革は、こうした社会的感情に応える政治的決断でもある。
もっとも、この制度には批判も存在する。左派政党や一部の法曹界は、過度な免責が市民による暴力行為を助長する可能性を指摘している。法の支配を重視する観点からは、私的な治安維持が広がることへの懸念も理解できる。しかし現実には、観光都市で頻発するスリ犯罪に対し、警察の即時対応が難しい場面も多い。制度はその空白を埋める形で設計された側面がある。
今回の改革は、2019年に導入された住宅や職場への侵入に対する正当防衛推定規定を基盤としている。その枠組みを街中や公共交通機関での犯罪にも適用し、より現実的な形へと拡張したのが2026年の「治安に関する緊急政令」(decreto-legge sulla sicurezza)である。治安対策を重視するメローニ政権の政策姿勢を象徴する改革と言える。
イタリアはこの法改正を通じて、被害者保護と犯罪抑止のバランスを再定義しようとしている。観光大国にとって安全は国家ブランドの一部であり、市民と訪問者の安心感は経済にも直結する。スリ対策を中心とした今回の制度は、欧州における治安政策の新しいモデルとして注目される可能性がある。犯罪者ではなく被害者を守るという原則を明確にした点で、この改革はイタリアの刑事政策の重要な転換点となった。


- ヴィズマーラ恵子
イタリア・ミラノ郊外在住。イタリア抹茶ストアと日本茶舗を経営・代表取締役社長。和⇄伊語逐次通訳・翻訳・コーディネータガイド。福岡県出身。中学校美術科教師を経て2000年に渡伊。フィレンツェ留学後ミラノに移住。イタリアの最新ニュースを斜め読みし、在住邦人の目線で現地から生の声を綴る。
Twitter:@vismoglie






















































