「JK流行語」などの若者言葉、スラング、どこの世界にも仲間内や小さなコミュニティで流行って、日常的に使われていく言葉があります。
例えば「ギロッポン」「ワイハ」「シースー」。どこかで聞いたことのあるようなこれらの逆さ言葉は、元々は戦後頃に日本のジャズミュージシャンや、バンドマンの間で流行っていたものです。
そこから面白がられて芸能界などに飛び火し、「業界用語」として広まっていった、という経緯を持ちます。
ジャズもタンゴもジャンル関係なく同じ仕事場で活動していた時代、日本でタンゴのことは「ゴタン」と呼ばれていました。
実は、タンゴの本場であるアルゼンチンの首都・ブエノスアイレスでも、同じようにひっくり返した「ゴタン」という呼称はよく使われます。
日本ではあまり聞かなくなっているように思いますが、現在でもこの街では、この逆さ言葉・通称 Vesre(「逆さま=Reves」という単語をひっくり返したもの)は日常的に使われています。
例えば、こちらはブエノスアイレス市政主催のコーヒーに関するイベント告知ですが、その名も「フェカ・デジタル」。
( コーヒー (CAFÉ) → FECA )
¡Falta muy poco para FECA Digital! El festival tendrá charlas, clases de cocina, descuentos y promociones en cafeterías de la Ciudad.
-- DisfrutemosBA (@DisfrutemosBA) May 6, 2021
Mientras tanto te contamos que hasta el 14/5 está abierta la inscripción para los locales que quieran participar.
Info: https://t.co/09NmTTkpVS pic.twitter.com/aXcZA8NLUw
アルゼンチンは南半球に位置するので、現在の季節は日本と真逆で秋の終わり、少し涼しくなってきたところなので、
Frio(寒い)という単語がひっくり返されて・・・

(寒い、寒い~、と言っているだけの、全く中身のない会話です。)
どんな言葉にでも適用されるわけではないのですが、例えばこんな単語たちがひっくり返されます。
Piano、ピアノ → Nopia
Sanguche、サンドイッチ → Chegusan
Viejo、古い → Jovie(「親父」的なニュアンスで使われます。)
日本、アルゼンチンだけではなくこの逆さ言葉は国・時代を問わず存在し、調べてみると実は日本でももっと以前に流行った時代があったようです。遡ること江戸時代、裏社会の人々や逆に取り締まる側の町方などが使っており、
「ドヤ街」(宿街)、「ダフ屋」(札屋)、「ちくる」(口る)などがその代表。また仲間うちだけで通じる略語や隠語も流行っていたのだとか。
さて、日本でもアルゼンチンでも、同じようにタンゴのことを「ゴタン」と呼んでいたという話。
果たして、これは偶然なのでしょうか?
アルゼンチンで「ゴタン」と言っていたのは、タンゴの歴史の始まりとほぼ同じ19世紀末頃からという記述が残っていて、日本よりも先に使われていたのは確かです。
もしもアルゼンチンのタンゴミュージシャンが使っていた逆さ言葉がどこかからか日本のバンドマンの間に入りこんで流行り、業界用語として使われ始めるようになったのだったら面白いなぁ、と仮定して、探ってみました。
日亜のタンゴミュージシャン間で交流があったのはいつ頃だったのか
戦後~日本が高度経済成長期真っ只中だった頃。日本国内でそれまで制限されていた外国の音楽に多くの人々が興味を持ち、アルゼンチンの音楽であるタンゴにもブームが巻き起こりました。国内では20をゆうに超える日本のタンゴ楽団が存在し活動していました。
かたやアルゼンチンでは、この頃にはタンゴブーム絶頂期を経て、外国産ロックの流入や国内の経済状況の悪化などの理由から陰りを見せ始め、タンゴ界はこの先を模索し始める・・・という状況でした。
日本とアルゼンチンは物理的にも遠く、文化も全く違う国。タンゴの本場の演奏を日本でも生で聴きたいと、楽団を招聘するようになります。初めて来日したアルゼンチンのタンゴ楽団は1954年、ファン・カナロ楽団。
アルゼンチン人たちにとっては、日本での仕事は一筋の希望のようなものだったようです。
公演を重ねるごとに成功は約束されていき、日本側も流行に乗じてどんどんと楽団を招聘していきます。
1961年、1964年、1965年、と続けてタンゴ楽団が来日し、1965年のオスバルド・プグリエーセ楽団によるツアーは、5か月で日本各地を回ってトータル135公演という回数で、大熱狂であったことがうかがえます。
余談ですが、この頃からの日本での体験、文化の素晴らしさなどをアルゼンチンのミュージシャンたちは毎度のお土産話に持ち帰り、アルゼンチン人にとって日本へ行くことは「夢」のひとつとなっていきます。(今でもそう思っている人は非常に多いです。)
他にも理由は色々ありますが、それはアルゼンチン人に親日家が多い理由のひとつとなっていると思います。
ということで、日本とアルゼンチンのタンゴミュージシャンの交流が始まったのは丁度この1950年代中盤から。
アルゼンチン人が使っていた逆さ言葉を、日本人が真似して使い出して広めたということはあるのでしょうか・・・!?
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ということで、ゆるりと聞き込み調査をしてみたところ、当時日本のタンゴ楽団で活動されていたヴァイオリン奏者の中田智也さんから、有力な証言?!を得ることができました。
日本のタンゴ界を代表する歌手、故・藤沢嵐子さんが、日本のタンゴミュージシャンとして初めてアルゼンチンを訪問したのが、1953年のことです。
日本へ帰ってきて、「あっちでも日本と同じでゴタンって言っていたわよ」
とお話しされていたのだそうです。
さらには、中田さんよりも先輩のミュージシャンが、「それよりもっと前から、日本のバンドマンたちは逆さ言葉を使っていた」と語っていた、とも。
アルゼンチン人と日本人のミュージシャンたちがくだけた会話を交わすような親密な交流が始まる前から、既に日本でも逆さ言葉は使われていたということなのでしょう。
1950年代より前に日亜のミュージシャン間の交流があったとは考えづらく、それぞれの国で同じようにタンゴのことを「ゴタン」と呼んでいたのは、偶然の同時発生なのではないか、という意見を多く頂きました。

とは言え、タンゴ文化自体が本格的に日本に輸入された年は1926年と言われています。
実際の交流はなかったとしても、その間にレコードジャケットなどの情報からなど、どこかから伝わったという可能性も・・・なきにしもあらず、かもしれません。
*あとがき
1954年には9か月間の日本滞在をしたバンドネオン奏者がいたり、後にはもっと長い年数で滞在したミュージシャンもおり、その当時にお互いがそれぞれ文化に与えた影響はタンゴ、音楽だけでなく、様々なものがあるでしょう。
上にあげたレコードはまさにタンゴを介した日亜の文化交流の代表的なもの。他に日本の文化がタンゴを通じてアルゼンチンへ渡った例としては、1954年最初に来日した楽団に参加していた、ウーゴ・バラリスというヴァイオリニストは後に「Anoné(あのね)」という曲を発表しています。(後にアストル・ピアソラもこの曲を取り上げています。)また、こちらの作品のように、日本の歌をタンゴアレンジにして集めたアルバムもあるのです。日本を意識した作品は、アルゼンチンに数多く存在します。