先週、国民的な英雄を失って英国は悲しみに包まれた。その英雄とはキャプテントムこと、サー・トム・ムーア退役大尉、享年100歳。昨年春に自宅の庭を歩いて巨額の寄付金を集めたことでその名が世界中に知られた人だ。チャーミングなお人柄でわたしたちの心をがっちりつかんだキャプテントムの突然の訃報に、自分の身内のことのように悲しむ人が多かった。わたしもそのひとりだ。というわけで、今回はコロナ禍に愛された英雄、キャプテントムのお話を。叙勲されているので「サー」をつけてお呼びするのが本当だろうけれど、ここでは生前ご本人がいつも望んでいらしたように、敬愛を込めて「キャプテントム」と呼ばせていただく。このヒーローっぽいお名前はあだ名ではなく、「トム大尉」という意味だ。
コロナウィルスで国全体がロックダウン状態だった昨年の春、キャプテントムは突然あらわれた(思えば登場のしかたもヒーロー的だった)。4月30日の100歳の誕生日までに自宅の庭を100往復歩いて寄付金を募っていることがテレビで紹介されたのだ。コロナ患者の対応に追われるNHS(国民保健サービス)や医療従事者に寄付しようと集め始めた当初の目標額は1000ポンド(現在は約14万円)。歩くだけなんて簡単なようだが、歩行器を使ってゆっくり歩くキャプテントムにとっては簡単ではない。もともと健康のために始めたことで、歩くと実は体が痛かったと亡くなってから知り、その意志の強さにますます頭が下がった。
4月の時点でキャプテントムの活動を紹介したBBCの日本語字幕つき報道(動画もあり)はこちらをどうぞ。(並べるのは申し訳ないのですが)同じ時期にわたしも個人ブログにキャプテントムのことを書いています。よろしかったらこちらをどうぞ。
Captain Sir Tom Moore, who won the nation's hearts and raised millions for NHS charities, has died aged 100.
-- BBC Breakfast (@BBCBreakfast) February 3, 2021
Here's a look back at his remarkable life. https://t.co/XY1oBgMCJv pic.twitter.com/KWHyr8NqlW
キャプテントムが歩行器でとぼとぼ歩く映像はすぐに広まり、キャプテントムはあっという間に人気者になった。テレビの画面を通じて実直で謙虚なお人柄がよく伝わってきた。ロックダウンの終わりが見えなくても、「Tomorrow is a good day.(明日はいい日になりますよ)」と真剣な顔で繰り返して、この言葉はのちに自伝のタイトルにもなった。英国らしい前向きな言葉だ。他にも、「あなたはひとりじゃないんですよ」「過去の困難もわたしたちは克服してきました。今度も同じです」と、いつもやさしく力強くわたしたちに語りかけてくれた。頼りになる上官や父親としてのキャプテントムも目に浮かぶ。
お年のせいか話し方こそ訥々としていたけれど、頭はすっきりしていてユーモアを忘れず、どこかひょうひょうとしていた。去年の秋、「明日はいい日になる」の話をしていて、「問題はいつでもそうとは限らないってことですね、はっはっは」と笑ったので、その場にいた人もつられて大笑いしたことがあった。自分の代名詞になった言葉さえ笑い飛ばせる軽やかさ。思うように行かないこともあるよ、気にするな、というメッセージのようにも感じられる。冗談を言って笑うとき、キャプテントムの目はいたずら好きな少年のようにきらりと光った。
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歩行チャレンジ中、キャプテントムは連日マスコミにひっぱりだこで、露出が増えるにつれて寄付額もうなぎのぼりに上がって行った。その頃、英国は初めてのロックダウンが始まったばかりで、先の見えない不安に苦しんでいた。自分が外出できないだけでなく、耳に入るニュースも医療器具の不足、スタッフの過労、死亡者の増加、と暗いものばかり。そんなとき、キャプテントムがあらわれて「足りないならみんなで寄付すればいいんだよ」と思い出させてくれた。寄付すれば少しは役に立てると気がついて小さな希望が見えた気がした。「希望」という言葉はキャプテントムもよく使い、数多くの追悼文にも使われたキーワードだ。
明るいニュースがほとんどなかったこの頃、キャプテントムが集める寄付の数字が毎日ぐんぐん上がって行くのを見るのは素直に嬉しくて心が弾んだ。ひとりじゃないよ、明日はいいひだよ、というキャプテントムの言葉に励まされた。たくさんの人が同じように感じたのだろう。この募金には150 万人以上が参加して、最終的に300万ポンド(約47億円)近くが集まった。
テレビに出るときは勲章をつけたジャケットに身を包み、とても礼儀正しく話して、古きよき英国を思い起こさせる人だった。北国ヨークシャーの出身ということも関係していたかもしれない。羊が多くて緑の丘が広がるヨークシャー地方には英国人の郷愁を誘うものがあるようなのだ。たまにヨークシャーの夫の実家を訪ねて、無骨だけれど頼りになる人たちに久しぶりに会うたびに、わたしもそんな気がしてきている。
100歳にして巨額の寄付を集めるという偉業を遂げたキャプテントムには、名誉大佐の肩書きやナイトの爵位が与えられた。自伝や絵本を出版したり、ミュージカル界の大御所マイケル・ボール(+NHSの合唱団)とデュエットした『You'll Never Walk Alone(著者訳:ともに歩もう)』が全英シングルチャート1位に輝いたりと大活躍。キャプテントムの挑戦に勇気づけられて、ハンディキャップを乗り越えて歩く人たちが次々に登場し、わたしたちはさらに励まされた。暗やみの中に希望の光をともしたキャプテントムは、そのあともたくさんの人を希望に向かって導いてくれた。
"If it wasn't for Captain Tom, I don't think Tony would be walking on his prosthetics today"
-- BBC Breakfast (@BBCBreakfast) February 3, 2021
Paula and Tony Hudgell remember Captain Sir Tom Moore on #BBCBreakfast.
Double-amputee Tony walked 10km on his prosthetic legs in June after watching Captain Tom on television. pic.twitter.com/2VYuXLrkrX
その年の功労者に贈られる賞を総なめにし、新年を祝う恒例の花火でも歩行器で歩く姿が写し出されたキャプテントムは、2020年の英国を代表する人だった。「希望を届ける」ことを目的としたThe Captain Tom Foundation(キャプテントム基金)という慈善団体も立ち上げていて、この高齢にして今年もますますの活躍が期待されていた。
コロナに立ち向かって愛されたヒーローは、皮肉にもコロナウィルスでこの世を去った。わたしたちの前にいてくれたのは10か月にも満たなかった。どの新聞もトップニュースとして扱い、首相や王室から追悼の声明が出され、半旗をかかげた議会では1分間の黙祷が行われた。実現しなかったが国葬という話も出たほどで、まさに国民的な英雄だった。亡くなる前には、昨年ずっと献身的に寄り添っていたお嬢さんやご家族とゆっくり話ができたそうで、本当に何よりだったと思う。すばらしい人生だったし、100歳は立派な大往生だけれど、さびしくて心細く感じてしまう。キャプテントムの穏やかな笑顔はコロナ禍にいるわたしの心の支えだったし、同じように感じた人は多かったと思う。
キャプテントムに心からの感謝を。どうぞ安らかにお休みください。
"If I've learned one thing from this year it's that it is never too late to start something new and make a difference, especially if it brings light and life to people around the world" #TomorrowWillBeAGoodDay #bestnine pic.twitter.com/orID8vzO3G
-- Captain Tom Moore (@captaintommoore) December 31, 2020