先日、ロンドンの老舗書店フォイルズで開かれた国際交流基金の日本文学のイベントに参加した。日本から迎えた作家の柴崎友香とポリー・バートンの対談だ。

ポリー・バートンという名前を最近見聞きした覚えがないだろうか。柚木麻子の『BUTTER』が世界累計100万部以上、英国では45万部を売り上げて(2025年7月新潮社プレスリリース)話題になっているが、それを英訳したのが彼女だ。

この数年、英国では日本人作家の作品が大人気だ。2025年には、王谷晶の『ババヤガの夜』(サム・ベット訳)が英国推理作家協会賞(通称ダガー賞)翻訳小説部門を日本の作品として初受賞し、書店の目立つところに日本作家コーナーが設けられることも増えてきた。わたしがロンドンに移った20年前には、川端康成、三島由紀夫、夏目漱石、紫式部、村上春樹、大江健三郎を見かけるくらいだったので、ずいぶん流れが変わったものだ。

最初に変化に気づいたのは、2019年刊行の川口俊和著『コーヒーが冷めないうちに』(ジェフリー・トゥルーセロ訳)だった。発売直後から書店で平積みになったので珍しいとながめていたら、すぐにわが住宅街の読書会にも取り上げられ、これまでと違う勢いを感じた。同じ年の村田沙耶香の『コンビニ人間』(竹森ジニー訳)ペーパーバック版は、色違いの表紙(確か水色、ピンク、黄色)で売り出され、力の入ったマーケティングに驚いた。その後、小川洋子、川上未映子、川上弘美の名前も目立つようになり、最近では松本清張、横溝正史、雨穴、池波正太郎なども売り出されている。

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対談当日の様子。左からモデレーターのカーヤ・ムラウスカ、ポリー・バートン、柴崎友香、通訳。筆者撮影

冒頭で触れたBUTTER』人気は本当にすごかった。刊行された2024年の後半になると、鮮やかな黄色い表紙の『BUTTERを読む人を電車や町でずいぶん見るようになり、やがて書店や読者が選ぶBooks Are My Bag Readers AwardsBreakthrough Author賞を受賞し、大手書店チェーン、ウォーターストーンズの「2024年今年の1冊」に選ばれた。翌2025年には英国で最も権威ある文学賞のひとつ、The British Book AwardsDebut Fiction部門も受賞、日本の文学作品として初めてこの3冠達成となった。

20257月に来英した柚木麻子とポリー・バートンとの対談がロンドンであった時には、のんびり構えているうちにチケットが早々に売り切れてしまった。日本作家のイベントが売り切れるなんて初めての経験だったので、それまでになかった大きな波を感じた。

英国では『BUTTER』を書いた柚木麻子も有名だけれど、これを訳したポリー・バートンにもファンが多い。柚木自身もインタビューでたびたび、ポリーは日本の岸本佐知子や斎藤真理子のような人気翻訳家で、『BUTTER』の大ヒットはポリー人気にも支えられているのでは? と話している。

文芸翻訳家としてのポリーのこれまでの作品には、柚木麻子、柴崎友香のほか、松田青子窪美澄、山崎ナオコーラ、角田光代、温又柔、市川沙央、津村記久子、金井美恵子など同世代の現代女性作家を中心に数多い(リンクを貼ったものはウェブ上で発表されていて、今も読むことができる)。

ポリーは翻訳家であると同時に作家でもあり、すでに2作品を刊行している。デビュー作Fifty Soundsは日本語の擬音語(オノマトペ)を糸口にしたエッセイで、2019年Fitzcarraldo Editions Essay Prizeを受賞している。「キュキキュキ」なんていう不思議な音も紹介されて、知的でユーモラスな文体から彼女の感性と日本での暮らしぶりが浮かび上がる、大好きな作品だ(一部をここ(吉田恭子訳)で読むことができる)。

2作目のPorn: : An Oral Historyは、住む国や性に関するバックグラウンドがさまざまな知人、友人19人にポルノについてインタビューしたノンフィクション。名前ではなく数字で呼ばれる登場人物たちの人となりが、ポルノを語ることで見えてくる。

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ポリー・バートンはケンブリッジ大学で哲学を学んだ後、日本語をほとんど知らないままJETプログラムの英語教師として佐渡に派遣された。日本語の勉強を始めた彼女は、その後ロンドン大学東洋アフリカ学院で翻訳で修士号を取得。企業で社内翻訳に携わりながら文芸翻訳家をめざし、2011年、日本の第1回JLPPコンクール(現・文化庁翻訳コンクール)で最優秀賞を受賞した。さらにクリエイティブライティングの名門校、イーストアングリア大学の英国文芸翻訳センターの翻訳ワークショップでも学んでいる。このワークショップは、竹森ジニー、モーガン・ジャイルズ、米田雅早など現在活躍する翻訳家を多く輩出しており、ポリーはその後は教える側にも立っている。これまで合わせて6年ほど日本に滞在した彼女は、英国と行ったり来たりしながら文芸翻訳家としての道を歩んできた。

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対談イベント当日のフォイルズ本店の平積み本の一部。日本作家は辻村深月、横溝正史、池波正太郎、柚木麻子、夏目漱石の名前が見える。筆者撮影

ここで突然ちょっと自慢をすると、わたしはポリーに何度か会ったことがある。ふふふふふ。

最初は2020年1月、わたしが所属する日英通訳者翻訳者の団体J-Netのワークショップにポリーをスピーカーとして招いた時だ。彼女が文芸翻訳家になるまでの道のりを聞きながら、穏やかそうなポリーが文芸翻訳を熱く追求した姿に感激した。「こんな話で参考になります?」と照れたように話す様子もチャーミングで、すっかりファンになってしまった。

その翌月、わたしは英国文芸翻訳センターのワークショップに参加した(ポリーが学んだプログラムとは異なる講義中心のもの)。そしてそこにもポリーがいたのだ。講師のひとりとして。

日本語と英語の翻訳を考えるこのワークショップには、ポリーのほか、詩人・作家の伊藤比呂美、伊藤の作品の英訳を担当するアメリカのジェフリー・アングルス、そして当時、英国文芸翻訳センターにレジデントとして滞在していた柴田元幸という豪華な講師陣が揃っていた。受講者も既に実績のある翻訳者が多く、わたしは緊張しまくっていたのだけれど、30人くらいの集まりということもあって、なごやかな雰囲気に包まれていた。

関係者だった友人のご厚意で夕食会にも呼んでいただき、ポリーをはじめ、みなさんと親しく過ごした。日英での異文化体験や翻訳、研究の話などを、日本語と英語を交えて真面目に愉快に聴くことができて、忘れられない楽しい夜だった。

この時ポリーが、なぜか東京より大阪の方が肌に合うんだよね、なんて言いながら、自分が訳した松田青子の『おばちゃんたちのいるところ』や津村記久子の『この世にたやすい職業はない』がどんなに面白いかを静かに熱く語っていたので、わたしも家に帰ってすぐ読んだ。面白かった!

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わが家にあるポリー・バートンの訳書。左上から逆時計回りに2020年にサインしてもらった『おばちゃんたちのいるところ』、今回柴崎友香にもサインしてもらった『春の庭』、発売になったばかりの『ナイルパーチの女子会』、『BUTTER』のハードカバー(単行本)。筆者撮影

その翌週、ロンドンの大英図書館の大ホールでポリーにまた会った。そこで、当時国際交流基金が毎年開催していたJapan Nowという日本文化を紹介するイベントが開催されていた。わたしが受けたワークショップも実はその一環で、日本から招かれ、英国各地を訪れていた作家や文化人たちが一堂に会したのがこの日だったのだ。

この年は映画監督の信友直子、作家の本谷有希子、小山田浩子、森見登美彦、写真家の澤田知子などが登壇。2017年に柴崎友香と登壇したポリーは、この時は客席で講演を聴いていて、1日がかりのイベントの合間に何度か顔を合わせて話をした。コロナウイルスが猛威をふるい始めた時期で、予定していた日本行きを中止すべきかという共通の悩みがあり、不安な気持ちを彼女と分かち合えて心強かったことを覚えている。

その後コロナ禍に入ってから、ポリーは着々と翻訳と創作を発表し続けた。BUTTER』が大ベストセラーになったことでますます有名人になっていく彼女を、わたしはファンとして嬉しく見守った。

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さて、話を先日の書店でのイベントに戻すと、柴崎友香とポリーの対談では、古いものへの興味は、誰かが作った、誰かが使ったという他者の存在を想像するから、という柴崎の言葉が強く印象に残った。ポリーは、幅広くあれこれ読んでいる柴崎が書くものは純粋に驚かされることが多く、とてもユニーク、などと話した。

柴崎とポリーは、2021年に英国文芸翻訳センターの同じ翻訳ワークショップに参加して一緒にブログも書いているし、柴崎の『百年と一日』もポリーが訳すなど、気心の知れた仲なのだろう。敬意を払い合うふたりの関係が見えるようで、ほのぼのする時間でもあった。

対談後のサイン会では、わたしもふたりからサインをもらった。主催者によればいつもより行列が長かったそうで、ポリーと長く話し込む人も多かった。柴崎友香に自分の感想を伝えられたことは嬉しい経験だったけれど、ポリーとの再会にはちょっと舞い上がって、「覚えてます?」となれなれしく話しかけてしまった。ちなみに日本語で。ポリーの日本語は日本人とほぼ変わらないのだ。前に会った事情を話すと、「ああ」という顔になって親しげに微笑んでくれ、少しおしゃべりをした後、サインに「また会えて嬉しい」と添えてくれた。

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ポリーの著書3冊。左が今回サインしてもらったFifty Sounds、右は2冊目のPorn: An Oral History。真ん中はなぜか4月の刊行前に書店に置かれていて勇んでゲットした初の小説What Am I, A Deer?。筆者撮影

ポリーが本当にわたしを覚えていたかどうかはわからない。もし覚えていてくれたなら大喜びだし、そうでなかったとしても、「また会えて嬉しい」と書いてくれるなんてやさしい人だもの。

翻訳家としても作家としてもますます期待されているポリー。3月12日に発売された柚木麻子の『ナイルパーチの女子会』の英訳Hookedは、その週のサンデータイムズベストセラー・ランキング位に4月9日には自身初の小説What am I, A Deer?も刊行される(すでに発売していた書店では、「上質のフィクション」として平積みされていた!)。こちらもとても楽しみだ。

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独立系の書店South Kensington BooksでHooked(『ナイルパーチの女子会』)を買ったら表紙のイラストをプリントしたかわいいトートバッグがもらえた。右は黒板に手書きされた宣伝ボード。筆者撮影

<敬称略>

さて、お世話になったこのニューズウィーク日本版World Voiceのブログは今回で最後になります。コロナ禍真っ只中に始まり、ロンドンでの経験をお伝えしてきましたが、わたし自身も考えを深めるきっかけになり、毎回がよい勉強でした。お読みいただき、ありがとうございました。

渡英20年を迎えてもわたしの日常は驚きと発見の連続で、ロンドンへの興味は尽きません。そんな暮らしをお伝えできたら、と思います。またどこかでお会いしましょう。