コラム

米最高裁の中絶権否定判決で再び注目される『侍女の物語』

2022年07月02日(土)15時20分

『侍女の物語』のコスチューム姿で最高裁に抗議する女性 Evelyn Hockstein/iStock.

<トランプ政権下で保守派判事が多数派となった最高裁のもと、アメリカはまるで「キリスト教原理主義」の社会へと傾倒しつつある>

2022年6月24日、アメリカ連邦最高裁は人工妊娠中絶の権利を認めた1973年の歴史的な「ロー対ウェイド判決」を覆す判断を下した。これにより、これまで憲法で保障されていた中絶の権利が否定されることになり、1カ月以内にアメリカ50州のうち約20州で人工妊娠中絶が違法あるいは厳しく制限されることが予測されている。

今後も州法で人工妊娠中絶(制約がある場合もある)が保障される可能性が高いアラスカ、カリフォルニア、コロラド、コネチカット、デラウェア、ワシントンDC(コロンビア特別区)、ハワイ、イリノイ、メイン、メリーランド、マサチューセッツ、ミネソタ、ネバダ、ニューハンプシャー、ニュージャージー、ニューメキシコ、ニューヨーク、オレゴン、ロードアイランド、バーモント、ワシントンの20州+1特別区を除く大半のアメリカで中絶が違法になる可能性が高い。よく見落とされていることだが、違法になった場合には、望む妊娠が医学的な理由で継続できなくなった場合や、稽留(けいりゅう)流産などで母体のために処置が必要になった場合であっても、掻爬(そうは)などの処置ができなくなる。

近年の共和党は経済的保守よりもキリスト教保守団体が勢力を伸ばしており、1973年の「ロー対ウェイド判決」以来、これを覆すのが宗教保守の大きな政治的目標になっていた。ゆえに、大統領候補に対する質問の中で「ロー対ウェイド判決」への見解と「人工妊娠中絶は合法であるべきか、違法であるべきか?」という質問は重視されてきた。最高裁判事を指名する権利を持つのは大統領だからだ。

最高裁判事の多数派を占めた保守派

アメリカ連邦最高裁判事の定員は9人で、死亡するか引退するまで入れ替えはない。バラク・オバマが大統領だった8年の間に3つの空席ができたが、当時マジョリティーだった共和党上院議員がオバマ大統領指名の候補を拒否して空席のままになっていた。後続のドナルド・トランプが大統領だったのは4年しかなかったが、前任者の時代からの空席、そしてリベラルのアイコンだったルース・ベイダー・ギンズバーグ判事の病死などにより3つの空席を埋めることができた。そのうち2つの空席は、オバマ大統領就任までのアメリカ議会であればオバマ大統領とバイデン大統領が指名することで納得されていたものだった。しかし、ポリティカル・コレクトネスを無視して当選したトランプ大統領によって活気づいた共和党は、なりふり構わずに自分たちの権力を追求するミッチ・マコネル上院多数党院内総務のリーダシップによってニール・ゴーサッチ、ブレット・カバノー、エイミー・コニー・バレットという保守の最高裁判事を任命することに成功した。それらの3人が、今回「ロー対ウェイド判決」を覆した5人の判事に含まれる。

このショッキングな出来事で、再び話題になっている本がある。それは1985年に刊行されたマーガレット・アトウッドの「The Handmaid's Tale(『侍女の物語』)」である。作家のスティーブン・キングは、判決が出た日に「Welcome to THE HANDMAID'S TALE」とツイートした。

この本は、トランプが大統領に就任した2017年に米国アマゾンで最も多く読まれた本になった。Huluでのドラマ化の影響もあるが、トランプ政権下の米国がこの本の架空の国Gileadになる不安が大きかったからである。Gileadはキリスト教原理主義のクーデターで独裁政権になった未来のアメリカ合衆国だ。白人至上主義で、徹底した男尊女卑の社会である。国民は男女とも厳しい規則で縛られ、常に監視されている。環境汚染などで女性の出産率が激減しており、子供が産める女性は貴重な道具として扱われる。不倫や堕胎をした女性は罪人として自由を奪われ、子どもを産むための「Handmaid(侍女)」として(妻が子どもを産めないでいる)司令官にあてがわれる。Handmaidは所有物なので、固有の名前を持つことは許されず、「of」に司令官の名前をつけて呼ばれる(例えば主人公のoffred)。

プロフィール

渡辺由佳里

Yukari Watanabe <Twitter Address https://twitter.com/YukariWatanabe
アメリカ・ボストン在住のエッセイスト、翻訳家。兵庫県生まれ。外資系企業勤務などを経て95年にアメリカに移住。2001年に小説『ノーティアーズ』(新潮社)で小説新潮長篇新人賞受賞。近著に『ベストセラーで読み解く現代アメリカ』(亜紀書房)、『トランプがはじめた21世紀の南北戦争』(晶文社)などがある。翻訳には、レベッカ・ソルニット『それを、真の名で呼ぶならば』(岩波書店)、『グレイトフル・デッドにマーケティングを学ぶ』(日経BP社、日経ビジネス人文庫)、マリア・V スナイダー『毒見師イレーナ』(ハーパーコリンズ)がある。

今、あなたにオススメ
ニュース速報

ワールド

台湾の頼次期総統、20日の就任式で中国との「現状維

ワールド

イスラエル軍、ガザ北部で攻勢強化 米大統領補佐官が

ワールド

アングル:トランプ氏陣営、本選敗北に備え「異議申し

ビジネス

日本製鉄副会長が来週訪米、USスチール買収で働きか
今、あなたにオススメ
MAGAZINE
特集:インドのヒント
特集:インドのヒント
2024年5月21日号(5/14発売)

矛盾だらけの人口超大国インド。読み解くカギはモディ首相の言葉にあり

メールマガジンのご登録はこちらから。
人気ランキング
  • 1

    EVが売れると自転車が爆発する...EV大国の中国で次々に明らかになる落とし穴

  • 2

    「EVは自動車保険入れません」...中国EVいよいよヤバいのか!?

  • 3

    SNSで動画が大ヒットした「雨の中でバレエを踊るナイジェリアの少年」...経験した偏見と苦難、そして現在の夢

  • 4

    「まるでロイヤルツアー」...メーガン妃とヘンリー王…

  • 5

    時速160キロで走行...制御失ったテスラが宙を舞い、4…

  • 6

    チャールズ英国王、自身の「不気味」な肖像画を見た…

  • 7

    日本とはどこが違う? 韓国ドラマのオリジナルサウン…

  • 8

    エジプトのギザ大ピラミッド近郊の地下に「謎めいた…

  • 9

    英供与車両から巨大な黒煙...ロシアのドローンが「貴…

  • 10

    立ち上る火柱、転がる犠牲者、ロシアの軍用車両10両…

  • 1

    EVが売れると自転車が爆発する...EV大国の中国で次々に明らかになる落とし穴

  • 2

    やっと撃墜できたドローンが、仲間の兵士に直撃する悲劇の動画...ロシア軍内で高まる「ショットガン寄越せ」の声

  • 3

    立ち上る火柱、転がる犠牲者、ロシアの軍用車両10両を一度に焼き尽くす動画をウクライナ軍が投稿

  • 4

    原因は「若者の困窮」ではない? 急速に進む韓国少…

  • 5

    新宿タワマン刺殺、和久井学容疑者に「同情」などで…

  • 6

    エジプトのギザ大ピラミッド近郊の地下に「謎めいた…

  • 7

    北米で素数ゼミが1803年以来の同時大発生、騒音もダ…

  • 8

    「EVは自動車保険入れません」...中国EVいよいよヤバ…

  • 9

    プーチン5期目はデフォルト前夜?......ロシアの歴史…

  • 10

    常圧で、種結晶を使わず、短時間で作りだせる...韓国…

  • 1

    ロシア「BUK-M1」が1発も撃てずに吹き飛ぶ瞬間...ミサイル発射寸前の「砲撃成功」動画をウクライナが公開

  • 2

    「おやつの代わりにナッツ」でむしろ太る...医学博士が教えるスナック菓子を控えるよりも美容と健康に大事なこと

  • 3

    新宿タワマン刺殺、和久井学容疑者に「同情」などできない理由

  • 4

    EVが売れると自転車が爆発する...EV大国の中国で次々…

  • 5

    やっと撃墜できたドローンが、仲間の兵士に直撃する…

  • 6

    立ち上る火柱、転がる犠牲者、ロシアの軍用車両10両…

  • 7

    世界3位の経済大国にはなれない?インドが「過大評価…

  • 8

    一瞬の閃光と爆音...ウクライナ戦闘機、ロシア軍ドロ…

  • 9

    タトゥーだけではなかった...バイキングが行っていた…

  • 10

    ヨルダン・ラジワ皇太子妃のマタニティ姿「デニム生地…

日本再発見 シーズン2
CHALLENGING INNOVATOR
Wonderful Story