日本から中国に帰国したウイグル女性を待っていた「悪魔の命令」と「死の罠」
A DEATH TRAP
それから3カ月後の19年6月、ミヒライさんはほとんど誰にも相談せず日本から帰国してしまう。後から帰国を知った在日ウイグル人は誰もが心配し、止められなかったことに悔しい思いをした。
アブドゥエリ氏によると帰国の数カ月前から、ミヒライさんが彼に発信をやめるよう求めたことが何度もあった。母親から帰国を求められているとも明かしていた。母親を介して警察当局からの圧力が日に日に強くなっていたという。
帰国当日、飛行機が飛び立つ直前にミヒライさんがアブドゥエリ氏に電話をしていた。その時、こう言い残している。
「叔父さん、警察当局はお母さんを介して、あなたの発信をやめさせるよう私に圧力をかけ続けている。私には、あなたの発信をやめさせることはできない。どうすればいいのか分からない。私が帰るしかいない。さもないとお母さんも収容されるかもしれない。せめてお母さんだけでも無事でいてほしい。お父さんが無事なら生きている姿を、そうでなかったらお墓だけでも見たい......」
父親のことで絶望的な状態に陥った彼女は、人質状態の母親の言うとおりにするしかなかったのだろう。
「私が死んだら、赤いシャクヤクの花を墓に手向けて」。ミヒライさんが日本を飛び立つ直前に友人宛てのショートメッセージに残した最後の言葉だ。危険を感じながらも家族を失いたくない、自分の目で確かめたいという一心だったのだと思う。
伝えられたミヒライさんの死
21年1月、ミヒライさんが死亡したとの情報をつかんだと、アブドゥエリ氏が私たちに知らせてきた。私たちは耳を疑い、嘘であってほしいと自分たちに言い聞かせた。私を含む男性たちは、ミヒライさんと付き合いのある女性やミヒライさんの教え子たちにこの情報を伝える勇気がなかった。次第にこの情報がSNS上で広がり、多くの在日ウイグル人は、なぜ彼女の帰国を阻止できなかったのかと自分自身を責めた。
死亡が伝えられ、アメリカの短波ラジオ放送局ラジオ・フリー・アジア(RFA)がその真相を確かめようと精力的に動いたが容易ではなかった。死亡が伝えられてしばらくたった21年5月、多くの当局者が電話取材を拒否するなか、RFAはようやく警察当局者から情報を得ることに成功した。取材に答えた警察の話によると、ミヒライさんはカシュガルのヤンブラック再教育センターに入っていた。そして20年暮れ、取り調べ中に死亡した。